第二章 歴代中華王朝における華夷秩序の変遷

明の時代 

次いで朝貢の根幹である国の威風を図るために海禁政策(朝貢交易関係以外の貿易を全て禁止)をとる。ところがいきなり海禁政策をとったために、従来行われていた官貿易や民間貿易も不振に陥ってしまう。

これを解決するために三代皇帝永楽帝は、イスラム教徒で官宦(かんがん)であった鄭和 (ていわ)に大遠征航海を命じる。鄭和は大艦隊をもって、七回にわたって東南アジアからインド洋経由アフリカのホルムズやメッカ辺りまで巡航する。

これは今日の中華人民共和国がとっている海上における「一帯一路」(真珠の首飾り)政策と似ている。

その結果十数か国が朝貢するようになり、大成功をおさめている。鄭和艦隊の規模は大航海時代の西洋艦隊に比べても巨大であり、周辺諸国に対して明の武威(ぶい)を大いに行き渡らせた。

艦船は全長百二十メートルで九本マストを備えていて、総勢二万八千人の六十二隻で編制されていた。まさに砲艦外交(後のショウザフラッグにも匹敵する)の草分けといえる。当時バスコ・ダ・ガマの外洋船は全長三十メートル、三本マスト、乗員百七十人程度であった。

今日の中国海軍はロシアに多くを学んで建設されていて、大陸国家としての地の利を生かした海洋戦略を企図している。米海軍のように、十隻もの航空母艦を保有して七つの海の支配を目指した海洋海軍の戦略とは異なる。

ロシアがオホーツク海を聖域化(敵を締め出す)して千島列島沿いに対艦ミサイルや水中音響探知機を配備し、ここに大陸間弾道弾を搭載した原子力潜水艦を潜ませている戦術を真似ていると推測される。

すなわち南シナ海と東シナ海を聖域化することによって、ここに原子力潜水艦や対艦ミサイルなどを配備して、米空母戦闘群に対峙する戦術を考えている。