第二章 歴代中華王朝における華夷秩序の変遷
明の時代
オホーツク海や日本列島はロシアにとって対米戦略の東方の国境(前線)となっていることから、例え民間機であっても戦闘機の目標になっている可能性は十分にある(今次ウクライナ侵攻参考)。
かつてのワルシャワ条約機構対NATOとの境界と同じように、北方四島はオホーツク海を聖域化している千島列島を形成して、ロシアの対日米共同作戦を扼する要石(キーストーン)となっている。
日本はウクライナと同様に狭い海峡を挟んでロシアと国境を接しているのである。
そのために米ロの対立がなくならない限り、またミサイル搭載原子力潜水艦などが無用とならない限り、加えてロシア国民の領土に対する保守的な考え方が変わらない限り、返還交渉は困難であろう。このことを承知のうえで、ロシアとの平和交渉や交易は進められる必要があろう。
同様の戦略思想に立っているとみられる中国にとって、東シナ海を包む台湾や尖閣諸島及び南西諸島の島々はとても重要な位置にあるといえる。
さて一四四九年、大いに栄えた明も、韃靼(タタール)とさげすんだモンゴル(実は以前の元帝国の後裔)との戦い(土木の変)に大敗して、六代皇帝が捕虜になっている。
明もまた軍事費の増大による重税や政府の腐敗、さらに倭寇の出現による貿易収入の落ち込みなどによって衰退し、ついに満州族の女真(後金)によって滅ぼされる。
日本との関係では、明の洪武帝(こうぶてい)が懐良親王に倭寇禁止要請の国書を送っている。足利義満は明との勘合貿易によって、永楽帝政権から膨大な下賜品を得てその地位を固めている。
明は天皇の家臣との通交を認めなかったので、義満は太政大臣を辞し、出家までして明の臣下となって勘合貿易を実現させている。
今日でも義満に似たような行動をとっているといえそうな企業家や資産家がいないとはいえない。もちろん公家たち(心ある人たち)は、義満が明から授けられた「日本国王」の指定を喜ばなかったであろう。
一五二三年、大内・細川氏の遣明船同士が舟山群島の寧波で抗争している(寧波の乱)。こうしたことは、国家を代表した企業としては恥ずべきことである。
また今日、覇権的政策や人権侵害問題などに無関心で、中国を太らせている西側諸国のシャイロック的な企業や個人もほめられたものではない。
いよいよポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスなどによる欧州列強のアジア進出が始まる。