第二章 歴代中華王朝における華夷秩序の変遷
清の時代
一六一六年、太祖(ヌルハチ:満洲人)が瀋陽に後金国を建国する。一六三六年、二代皇帝太宗(ホンタイジ:姓は愛新覚羅(あいしんかくら))が国号を清に改める。満洲族による国家清は、北方に直轄領として黒竜江以北及び満洲を確保し、内・外モンゴルを藩部(はんぶ)(所属地域)に指定して満洲人の長官による統治を実施する。西方に同じく藩部として今日人権侵害問題となっている新疆・チベット・東トルキスタンを確保する。
南方に属国としてベトナム・ビルマ・タイ及び直轄領の台湾を擁し、さらに東方に朝鮮を服属させて一大帝国を築く。特筆すべきは満洲の地は、漢人の国家ではない満洲人の国家「清」が、帝政ロシアと交わしたネルチンスク条約によって、あらたに獲得された地域だということである。
後に蒋介石は、異人種(満洲人)の国家であった清が外国と結んだ条約は全て無効であるとして、ベルサイユ条約(国際条約)では認められていた満洲における日本の各種権利を認めなかった。そうであるならば、清とロシア間で結ばれたネルチンスク条約によって、あらたに獲得された満洲の地は中華民国の領土ではなかったということになる。
清は前王朝の元の失敗に学んで、満漢併用制(満洲人と漢人を等しく遇する政策)を採用して、漢人を手なずける政策を実施する。異民族国家ではあったが、歴代の中華王朝が採用してきた儒教を奉じて科挙制度を取り入れ、欧米的な契約(国際法)に基づく貿易を拒絶して朝貢制度の確立を図る。
軍事政策として八旗(はっき)(モンゴル人主体の軍)を重要な地域に配置し、緑営(りょくえい)(漢人の軍隊)は地方に配備する。また満洲風俗(弁髪)を強制するとともに、キリスト教は儒教倫理に反するとして弾圧する(文明の衝突)。
一六八九年、ロシアとの間にネルチンスク条約を締結する。本条約は清とヨーロッパ諸国との間に結ばれた初めての条約となる。その四年後に英国のマカートニー使節団が乾隆帝(けんりゅうてい)に面談して、西欧流の貿易関係(国際法に基づく)を望んだ際、三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)(一回ひざまずき三回頭を下げることを三回繰り返す)の礼を要求されて断って破断となっている。
英国は既に一六〇〇年、東洋貿易のために商社東インド会社を設立して、手始めにインド侵略を開始する。カルナータカ戦争でフランスから南インドを奪い取ると、引き続いてブラッシーの戦いでベンガル地方の支配権を確立する。
マイソール戦争でマイソール王国を内部分裂させて撃破、マラータ戦争及びシク戦争においては裏工作によって各王国を内部分裂させ、各固撃破(かっこげきは)(それぞれ別個に撃破する)によって全インドを征服して植民地化を達成する。