第二章 歴代中華王朝における華夷秩序の変遷
元の時代
一一二七年、後金(女真族:満洲に起こったツングース系)が北宋を滅ぼした後、モンゴル帝国二代皇帝太宗(オゴタイハン)が後金を征服する。
欧州においては、一二四〇年チンギス・ハンの後裔(こうえい)バトゥが東スラブ人(ウクライナ・ロシア・ベラルーシ人など)の公国であったキエフ大公国を滅ぼして以降同地域を支配する(タタールの軛(くびき))。
当該地域は一〇〇を超す公国が割拠(林立)して互いに争っていた。この関係が今日までもくすぶってウクライナ問題にも関係している。
モンゴル帝国第五代皇帝フビライ・ハンが大都(北京)に遷都する。一二七一年国号を元と定め、一二七六年には南宋が事実上滅亡する。
ベトナムに侵攻するが失敗に終わる(白藤江(はくとうこう)の戦い)。続いて樺太に遠征してアイヌ民族を樺太から排除し、引き続いてビルマ遠征を行う。アイヌ民族は樺太周辺に住む少数民族で元にとってさほど脅威とは考えられないが、騎馬民族の徹底した覇権性をうかがうことができる。
元は歴代の中華王朝が実施してきた科挙制度を廃止するとともに朝貢外交も廃止し、従来の中華色(科挙制度に基づく法治主義)を一掃する。
このことは後に、宋と密接な朝貢関係にあった日本との関係にも大きく影響することになる(元寇)。その影響については後述する。
重要官職は、全てモンゴル人が独占し、漢人を排除して色目人(しきもくじん)(ウイグルやサラセン人等のトルコ・イラン系を指す)を重用するとともに、モンゴル人に次ぐ特権を与えている。
この人種差別政策は、モンゴル人が農耕民と交わることによって農耕民族の土着性に慣れてしまって、尚武(しょうぶ)(武を尊ぶ)の気風が薄れることを危惧(心配)したためと思われる。
人材登用においては能力主義を廃して、縁故関係によって高官の子弟や貴族の家門による封建的人事を行う。チベット仏教(インド仏教に近く騎馬民族の放浪性に合致)を国教とする。シルクロードを通じた対外貿易が振興されて唐時代以来の活況を呈し、パクス・モンゴリカと呼ばれるほどに盛況であった。
それでも科挙の廃止による士大夫(漢人の知識階級)身分の者たちの不満や、同族や兄弟間の帝位争い、宮廷の乱費、さらには黄河治水工事への強制徴発に反発した漢民族の蜂起「紅巾(こうきん)の乱」などによって滅びる。
対日関係では、一二九九年元使一山一寧(いっさんいちねい)(南宋の臨済宗の僧で和平交渉のために日本に遣わした)が国書を持って鎌倉に来る。以後、建長寺造営料船、住吉社造営料船、天龍寺造営料船などが元に派遣されて交易が盛んになる。この頃から前期倭寇(日本人主体)の活動が活発化してくる。
同時代ベネチア商人マルコポーロが、ローマ教皇の親書を持ってモンゴルにおいてフビライに合う。元によって中断されていた朝貢制度に基づく貿易は、次の明の時代になって復活される。