明の時代
一三六八年、太祖(光武帝・朱元璋)(しゅげんしょう)が南京に明を建国する。周辺には北方にタタール「実は前政権の元の後裔(子孫)であったが漢人がさげすんでこう呼んだ」及び女真(ツングース系)、西方にオイラト(瓦刺(わら))、南方に大越国(ベトナム系)及び南海諸国(インド・アラビア・アフリカなどの東岸諸国)、東方に朝鮮と日本が控えている。明と後金(女真)の戦い「寧遠(ねいえん)の戦い」では、明側によって「堅壁清野(けんぺきせいや)」と呼ばれる作戦が実施される。城壁内に味方の人員を全て取り込んで城外を徹底的に焼き尽くして、敵に何も与えず兵糧攻めにして持久戦に持ち込む焦土作戦である。この戦術は日中戦争でも適用されて日本軍を苦しめている。
因みに日中戦争時の南京攻略作戦などにおいても同様の作戦がとられ、逃げ遅れた住民や命令に背いて住み慣れた土地や住居を離れない農民・市民などが数多く残されていて、敵味方入り混じっての乱戦に巻き込まれて犠牲になったであろう。日本軍が城壁を破って突入した際、中国兵は軍服を脱ぎ捨てて市民に紛れ、兵民の区別がつかなくなっていた。
この乱戦時における日中双方の犠牲が南京事件として大きく報道されたのである。
大方の中国人は日本人同様に自分の住む土地や家に強い執着をもっていて、命令に背いて居残った人々がずいぶんいたと考えられる。
太祖洪武帝(こうぶてい)は失った華夷秩序を復活させるために儒教から発展した朱子学を官学として富国強兵政策を打ち出す。まず里甲(りこう)制(魚鱗図冊(ぎょりんずさつ)・賦役黄冊(ふえきこうさつ))による検地や戸籍・租税台帳による税の徴収を徹底する。軍事面では衛所制(えいしょせい)や軍区を設置して徴兵性を確立する。
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