まず、「背後にあるもの」とは、その行為(泣いていること)が生徒(被観察者)自ら付与した「意味づけ」の表出であることを観察者(教員)は理解しなければならない。

生徒の意味づけは何層にも重なっている。仮にいじめられたために泣いているとしたら、「自分はいじめられてとても悲しい」という「意味づけ」だけでなく、「いじめられていることを誰かに気づいてほしい」という「企図」(意図)が含まれているかもしれない。

また、その生徒は〝いじめ〟にもさまざまな意味を付与しているだろう。〝いじめ〟を悲惨なこととして捉えているのか、社会悪とまで思っているのか、自分さえ関わることがなければあまり重要だと思っていなかったのか、これまでいじめられた(いじめた)経験があるか、あるならそのとき何を思ったのかなど、生徒本人のさまざまな経験によって主観的に構築された意味の連関を持っている。

観察者(教員)が「いじめかも?」と思った時点では、まだ観察者(教員)側の意味連関によって推測されたに過ぎない。

それでも、そのレベルまで達することで、単に目に映る「表示」(映像)の認知にとどまらず、「この生徒には、この生徒特有の主観的な意味づけの仕方があるはずだ」ということに視点を向けるという意味で意義がある。

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