「純粋の他者理解」

当然のことながら、生徒は人間である。生徒を理解しようとするなら「生徒理解」の前に「他者理解」とは何かを考えなければならない。

実は、この問題に見事に答えを与えてくれる理論がある。それが、現象学的社会学の祖といわれるアルフレッド・シュッツ(Alfred Schütz、一八九九-一九五九)の「純粋の他者理解」である。シュッツはそれを次のように定義している。

(被観察者の)「外的な事実や身体運動は、被観察者の生きられた経験の表示(Anzeichen)として理解され、観察者の注意は、表示そのものにではなく、その背後にあるものに向けられている。これが純粋の他者理解である」(シュッツ、一九八〇年、一五九頁)

ざっくりと説明するとこうなる。

すなわち、「他者理解」には二つあって、一つが相手によって目に見えるものとして「表示」された行動を単に認知する「客観的な理解」、もう一つが相手の「背後にあるもの」に目を向けた「純粋の他者理解」である。

後者は、相手の行動を何らかの「企図」(意図)を持った「行為」として捉える。ただ見ているだけではない。

例えば、教室に一人残って泣いている生徒がいたとしよう。その姿(生徒が外に示した「表示」)を見て教員が「ああ、泣いてるなあ」と見ているだけの段階が「客観的な理解」である。これは「純粋の他者理解」とは言えない(認知しただけ)。

被観察者(泣いている生徒)の「背後にあるもの」に「注意を向ける」には、さらに次のような段階を経る必要がある。