瑠璃は手持無沙汰になり、廊下に出て自動販売機を探した。廊下の突き当りに設置してあるのを見つけた瑠璃は、コインを入れ紅茶のボタンを押した。

自動販売機の横にあるベンチに座り、紅茶を飲みながら瑠璃は溜息をついた。

「何もなければいいけど……」

瑠璃はふと窓の外に目をやると、濃い緑に囲まれた古城公園が見えた。お堀端の桜は有名で、わざわざ富山から高岡まで見にくる人がいた。

瑠璃が小さいころ、良く父と母に連れられ、お花見にきてお弁当を食べたことを思い出した。

また、毎年五月の初めに行われる「高岡御車山祭(みくるまやままつり) 」が楽しみで、沿道から眺める山車の豪華な装飾に目を輝かせ、瑠璃が引き回しのなり手を、父にせがんで困らせた記憶が蘇ってきた。

紅茶を飲み終えた瑠璃が、母のいるベッドに戻ろうとすると、廊下の向こうから白衣をきた男性が右腕をあげ手を振りながら近づいてきた。

高瀬純二郎だった。二人は立ち話になった。

「お母さんの具合はどうですか?」

「少し疲れたと言って、寝ております」

「ご高齢ですし、当たり前だと思います」

「普段、気丈な母ゆえ堪えているんだと思います」

純二郎が思い出したかのように、

「早乙女さん、お母さんは富山大空襲の語り部をされていたようですね」と聞かれ、瑠璃は戸惑った。

「そうですが、良くご存知で……」と瑠璃は意外そうな顔をした。

「偶然、北国テレビで放送された富山大空襲の特集を録画で見ていたら、語り部としてお母さんが出演されていたのを思い出しました。

私の兄はあまり話したがらないのですが、私たち兄弟の父・高瀬源一郎は満州生まれで、祖父が富山の薬業専門学校を出て満州で売薬さんたちをまとめていたそうです。海外で一儲けしたかったらしく、一家総出で中国に渡りました。

ところが、祖父が満洲にいて戦況が悪化しそうなのをいち早く察し、祖母と幼子の父たちを先に日本に帰国させ、富山市内の実家に住まわせました。その決断は正しかったと思うのですが、祖母と父の兄弟は空襲に遭い、なんとか逃げ回って命拾いをしました。

親戚やお世話になった近所の方々、友人たちなどが空襲で犠牲になり、自分たちが生き残ったという懺悔の気持ちがあったようです。

祖父は満州で亡くなり、祖母が働きづめで父たちを育て、空襲で焼失した薬業専門学校が戦後復興され、父は祖父と同じ学校を卒業し薬の会社に就職しました。

その会社で事務員をしていたのが母で、一目惚れだったそうです。両親から『世のため人のため尽くせ』と育てられた結果、二人して医者の道を選びました」

 

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