A-04 大学時代から教員時代を振り返り,研究の再開へ

学校教員としての人生を歩みながらも,大学時代に描いた研究者としての夢を捨てきれなかったのが事実です。実現可能な夢として,研究者をめざしたそのいきさつをここでもう一度振り返り,その流れを示したいと思いました。

人生の礎となったのは近畿大学理工学部応用化学科時代であり,その基盤を示すことで教育者として今日までの経緯と研究者になろうとして取り組んできたことを明らかにしたいと思います。

A-01,A-02,A-03と重複する部分もありますが,その部分は重要な要素としてとらえていただきたいと思います。大学時代のお話を中心にして,「人生の探究」の世界に歩み出してみましょう。

大学,大学院時代の経験からつかみ取ったこと

1─近畿大学理工学部時代を振り返って

私は,近畿大学理工学部応用化学科(有機化学第二研究室:亀岡研)の出身です。化学に興味があったこと,実用的な研究がしたかったこと,中学・高校の理科・工業の教員免許が取れる教職課程があることなどを調べ,工学系の総合大学を探しました。その結果,近畿大学の理工学部応用化学科がこれらの条件を満たしていることを見出しました。

特に,工学系で理科・工業の両方の免許が取れる大学とその学科は非常に少なく,当時ほとんどが工業の免許のみでした。私のような地方(岐阜県恵那市)から,大阪という大都会に出て来ることで大学生活がやっていけるかどうか,友人などができるかどうかなども含め,多くの不安があふれていました。

いざ,東大阪に来て,下宿先を探し,生活用品のほとんどを近大生協で入手しました。当時の生協は,21号館脇のプレハブタイプの施設でした。

現在は,非常に発展し大きくなっており,21号館1Fや校舎内の各所にあります。大阪は,言葉も違い,習慣も違いびっくりしました。とにかくスピードは速い,ダイレクトで,特に南部方面は,関西弁でも言葉がきつく,最初は叱られているような感じを受けたものです。

ところが,大阪は,人情が厚くざっくばらん,人間味がある地域ということが次第に分かってきました。田舎から来ているということで,周囲から段々声をかけてもらったりして,友人が増えていったことを覚えています。

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