1 変化の激しい時代に向けた教育

1-2 総合的な学習

本書では、すでに「総合的な学習の時間」が定着した(第9次学習指導要領の)現在であることと、しかし、ここまで述べてきたような趣旨が十分に踏まえられないままの学習となっていることがあった場合を想定し、一単元中にこれらを一通り含む展開を構想することにします。

ここまで述べてきた「総合的な学習の時間」ですが、第9次の学習指導要領では、〈1-1〉で触れた、これから先のどうなるか分からない世界を生き抜いていく力として、「『探究的な見方・考え方』を働かせ、総合的・横断的な学習を行うことを通して、よりよく課題を解決し、自己の生き方を考えていくための資質・能力を育成することを目指す」ことが明確化されました1)

しかし、そうした「総合的な学習の時間」ですが、もしもこの時間を「受験に直結する5教科の勉強時間に振り替えてしまおう」とか「何となく・・・・学校行事の練習時間に充ててしまおう」としたならば、それは「総合的な学習の時間」の形骸化を意味します。そして、そのような現状も見られることは否めません。

例えば、2016年に出版された『学問のしくみ辞典』という書籍2)には「2002年に実施された(中略)『総合的な学習の時間』は教師のやる気や力量に左右され、児童生徒の相対的かつ絶対的な学力低下を招いたと批判され、10年ほどで終焉を迎えることとなった」という記述があります。

この書籍の記述に基づくならば、一般社会の認識では2012年くらいには「終焉した」ことになります。もちろん終焉したわけではなく、現行の学習指導要領にも「総合的な学習の時間」は教育課程における活動の一つとして位置づけられています。したがってその記述は正しいとはいえないのですが、その一方で、先述のように形骸化している面もあることから、この指摘はある意味「当たらずといえども遠からず」といった面があります3)

それでは、「総合的な学習の時間」は、なぜ形骸化しやすい面があるのでしょうか。その理由を「学校現場の実態」と「教科教育の研究の視点」から考えてみます。「学校現場の実態」から考えると、「自由度が大きすぎて、学校教育の実情に即していない面がある」ことが指摘できます4)

「総合的な学習の時間」が創設された頃の学習指導要領5)では、「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること」、および、「学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探究活動に主体的、創造的に取り組む態度を育て、自己の生き方を考えることができるようにすること」が謳われていました。