両親とともに病院を出ると、玄関前に大きめの白いバンが停まっていた。車椅子用のタクシーだった。車輛後部から車椅子ごとリフトで乗せられる。前部座席に運転手、二列目に両親が乗り、僕は後方のスペースに車椅子ごとワイヤーで固定された。

車が走りだし、後方をふり返った。深い暗闇から生還して一か月ちょっとを過ごした病院。外観を見るのはこれが初めてだが、五百床以上はあるだろう、大きな白い建物だった。

車は市街地を走った。久しぶりに見る外の景色は、何もかもが新鮮だった。街中を人々が行き交い、なんてことのない日常が進んでいる。建物の密集した市街地を抜けると、車は緑が広がる野山の中を走った。

両親は外を眺めながら、しきりに「ここはいい所だねぇ」と話していたが、車の揺れとさらに車椅子の揺れが重なって気分が悪くなっていた僕には、景色を楽しむ余裕などなかった。

車はおよそ三十分で旭川空港に到着した。車椅子が降ろされると、僕らは空港入口で警察官に出迎えられた。僕一人、そのまま空港内の派出所へ連れていかれ、小さな個室で事故現場の見取り図を見せられた。

事故後の現場検証は僕が意識不明で病院へ搬送されたため、加害者と両親によって行われており、轢かれた本人は立ち会っていなかった。

八月十六日、午後七時三十分頃、富良野のパーキングに車を停め、向かいにあるトイレへ行こうと道を渡ろうとしたところを車に撥ねられたという。

僕が道を渡った場所から横断歩道までの距離が五十四メートル。加害者が右前方の僕を発見可能な地点は、およそ四十メートル手前。

加害者が僕に気づいてブレーキをかけ、ハンドルをきった地点は、十三メートル手前。衝突時のスピードは、時速六十キロ。車が停止したのは、衝突地点から三十二メートル先。撥ねとばされた距離は、十三メートル。

よく死ななかったな。他人事(ひとごと)のようにそう思った。

警官はひとつ説明するたびに「そうですね?」と同意を求めたが、正直、まったく覚えていなかった。覚えているのは、あの夜、富良野でもう一泊しようとパーキングへ向かうまでだ。目が覚めると、病室のベッドで数日が経過していた。

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