しかし、我々の普通の感覚としては、例えば、歴史に関することは社会科で、生物に関することは理科で……という具合に、その内容によって教科が成立している(大学で行われている学問研究なり科学研究に範を求めたもの)ということではないでしょうか。

今を生きている我々は、過去に学び、それが将来の準備になるということから、例えば歴史が過去のことを扱う研究のように思えても、その出発点はあくまでも現在の何かの問題解決を目指すものといえます。

ところが、「従来はどちらかといえば内容の“過去性”が重視されてきたのではないだろうか。あるいは、既に研究され蓄積されてきた結論としての知識(広くは文化遺産)が重視されてきたのではないだろうか」6)という指摘のようであって、「子どもはそれらの内容を過去のものとして、自分とは関係のない、あるいは薄いものとして、それらを次から次へと暗記していく。そしてその結果はといえば、ゆとりのない学校生活、生活と学校との二重生活、知識と行動の乖離等」7)につながっていくことになるのです。

近年になって、ある歴史上の出来事の年代が修正されたこともあるようですが、そのことによって、「今」の何がどう変わったでしょうか。深い学びとせずに、もしも単純に、先述のような「自分とは関係のない、あるいは薄いものとして、それらを次から次へと暗記」して、そして「生活と学校との二重生活」や「知識と行動の乖離」等が起きているとしたら、どうでしょうか。

「教科」の学習には、そのようなことが起きていると考えられ、学校教育の内容は、「科学・学問を基礎にするといわれながら、現実にはそこで創造された“結論や結果”が一面的に重視され、このため、子どもはそれらを覚え、記憶する以外に手がなくなることになる。(中略)今日の学校教育においては(中略)、知識の学習と知識の使用との乖離(学んだ知識が使えない)、学校と生活との遊離等が進行」8)していることになります。

これでも、お勉強することの意味が実感できるでしょうか。


1)       高浦勝義「『教科』概念の見直し・再編問題」『個性化教育研究』5、日本個性化教育学会、2013、p.15.

2)       同上書、p.20.

3)       同上。

4)       文部省『学習指導要領 一般編(試案)』昭和22年度。「第三章 教科課程/一 教科課程はどうしてきめるか」。

5)       同前掲書 1)、p.24.

6)       高浦勝義『総合学習の理論・実践・評価』黎明書房、2000、p.43.

7)       同上。

8)       同上書、p46.