序節 日本書紀の編年のズレ

第1節 6~7世紀の日本書紀編年の捏造表

補論 2 干支紀年法と超辰

ところで、この木星=歳星による紀年法は、木星が丁度12年で1周天すると仮定しての紀年法である。然るに木星は約11.86年で1周天してしまう。故に長い年数が経つと木星の示す紀年が暦の紀年より先に進んでしまう状況に至る(85年も経てば木星は干支一つ分先行することになる)。そこで、木星に合わせようとすると、一定期間の後に、いわゆる、「超辰」という操作が必要になる。つまり、ある時点で干支を一つ加えた干支に変更する操作が必要になる(p.122・123)。

実際、この操作が行われたであろう痕跡が、新城氏によって摘出されている(p.171)。

(イ)    秦の呂不韋の呂氏春秋に「維秦八年、歳在涒灘、秋甲子朔云々」とあり、秦八年はB.C.239年、始皇帝による統一秦帝国樹立(B.C.221年)を遡ること18年、この年の干支は現行干支では(新)壬戌年であるが、涒灘(トンタン)とは申年のこと故(下表参照)、これは名目上2年遅れた十二支である。顓頊暦が行われる前の干支紀年法であり、顓頊暦より名目上1年遅れた干支になっている。

(ロ)    前漢書賈諠(カケン)伝にある賈諠の賦に「單閼之歳、四月孟夏、庚子日斜云々」とあり、これは文帝七年、B.C.173年、(新)戊辰年の記事である。他方、單閼(タンアツ)とは卯歳のことであるので(下表)、現行干支年より名目上、1年遅れた干支、つまり、我々の用語でいう旧干支紀年法になっている。丁度、顓頊暦が行われていた時期であり、従って顓頊暦に従う干支紀年法となっているのである。恐らく顓頊暦の採用に当たって「超辰」が行われたのである。

(ハ)    前漢書翼奉伝にある翼奉の封事に「今年太陰建於甲戌」とあり、これは初元2年、B.C.47年、(新)甲戌年のことで、現行干支に一致する。B.C.104年、前漢武帝の太初元年に顓頊暦から太初暦への改暦がなされており、この際に「超辰」が行われたものと思われる。中国では以後「超辰」は廃止されて現在に至っている。

なお、新城氏はこの他に(ニ)として、太初元年・B.C.104年を焉逢摂提格(=甲寅年。下表参照)とする『史記』暦書にある詔書記事の例を挙げておられるが、B.C.104年は現行干支紀年法では丁丑年であって、この例は「超辰」列からは大きく外れた異質な例である。甲寅ではなく戊寅ならば丁丑の次の干支であるが、甲寅では全く論外である。

また太初暦の増補版である三統暦(前漢末~A.D.85)の作者、前漢の劉歆(りゅうきん)は、木星は12年で145/144周天する、つまり12年で 1 /144周天分先へ進むと考え(こちらであると1周天に11.92年かかる勘定であり、実際とはややずれがある)、すると144年経つと木星は 1 /12周天、つまり干支一つ分先へ進むことになるので144年ごとに超辰し、将来も超辰すべきとする理論を提唱したが、実際の天象とはずれており、煩雑でもあって、この超辰理論の用いられることはなかった。