第2節 我が国の暦法史概観・元嘉暦概論・儀鳳暦序論・後漢四分暦概論
日本の持統朝以前の古代暦法史について史書に見えるところは、次のような片々たる記事でしかない。原文・読み下し文の順に掲げる。
参考史料❶欽明8年紀(従来説で547年、実は548年)夏4月条
百済遣二前部徳率真慕宣文・奈率奇麻等一、乞二救軍一。仍貢二下部東城子言一、代二徳率汶休麻那一。
百済、前部(ぜんほう)《百済五部の一》徳率(とくそち)《百済の官位16階の第4》真慕宣文(しんもせんもん)・奈率奇麻(なそちがま)《奈率は百済官位16階の第6》等を遣して、救軍(すくひのいくさ)を乞ふ《高句麗の侵攻に対する救軍である》。仍りて下部(かほう)《百済五部の一》東城子言(とうじゃうしごん)を貢り、徳率汶休麻那(もんくまな)に代ふ。
①欽明14年紀《恐らく従来説通り、553年》6月条
遣二内臣一〈闕レ名〉、使二於百済一。仍賜二良馬二疋・同船二隻・弓五十張・箭五十具一。勅云「所レ請軍者、随二王所須一」。別勅「醫博士・易博士・暦博士等、宜依レ番上下。今上件色人、正當二相代年月一。宜下付二還使一相代上。又卜書・暦本・種々薬物、可二付送一」
内臣〈名を闕く〉を遣して、百済に使せしむ。仍(よ)りて良馬二疋・同船(もろきふね)二隻・弓五十張・箭五十具を賜ふ。勅(みことのり)して云(のたま)はく「請(まう)す所の軍(いくさ)は、王の須(もち)ゐむ随(まま)ならむ」と《ここの軍は高句麗・新羅連合軍との戦いのための軍である》。
別(こと)に勅したまはく「醫(くすし)博士・易(やく)博士・暦(こよみ)博士等、宜しく番(つがひ)に依りて上下(まうでまか)るべし。今上件(かみのくだり)の色(しな)の人は、正に相ひ代らむ年月に當れり。宜しく還使に付けて相代らしむべし。又卜書・暦本・種々の薬物、付送(たてまつ)る可(べ)し」