決定的だったのは、大学の入学式のオープニングで、ワグネル・ソサィエティー・オーケストラがワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第一幕への前奏曲を演奏したことだった。冒頭の音が鳴り響いたとたん、頭をガーンと殴られたような気がして、つぎの瞬間、胸が高鳴った。私はここに来るべくして来たのだ、と、実感した。
ドイツ文学を専攻しようと決めた私は、専攻科の説明会に出席した。何人かの先生が、自分の専門分野と講義内容を説明した。そのなかで、宮下先生の専門分野はもちろんだが、人柄にピンとくるものがあった。この先生のもとでなら、なにか私なりの学びができそうだと感じた。これが一九七七年のことだった。
東京仏教学院
大学ではドイツ文学を専攻したが、これが将来なにかの役に立つと思っていたわけではない。英語でさえ、自分の将来には関係がないと思い込んでいた私である。ドイツ語ともなればなおさらである。ただ、自分の趣味が高じただけだった。父には
「必ず帰ってきます」
といった手前、なにか仏教的なものを学ばなければならないとは感じていた。父からは、
「築地本願寺に夜間の仏教学院があるから、、そこに行ったらいい」
と連絡があった。これが大学四年になる前のこと。四年になれば卒業論文の執筆があり、毎日学院に通うことで、正直なところ時間を取られたくはなかった。三年のときには、週に六日家庭教師をしていた。これは宮下先生が、
「私の学生生活はグレーでした。週に六日家庭教師をしていましたから」
といわれたのに触発されてのことだった。私も同じようにして、バラ色にしようと思ったが、結果はグレーではないが、それに近い色のような感じだった。