【前回の記事を読む】「人生は問題解決の連続」を知ることが子どもたちにとって大切なワケ

第1章 「楽しさ」と「実感」がある授業のために…

1-4 教育とは──対話を重視してともに学ぶ

「教育」という言葉には、たくさんの意味があります。定義がはっきりしないというより、定義がありすぎるという感じでしょうか。技能を指導するのも、知識を伝授するのも、極端にいえば

「あの動物、とてもよく飼いならしてありますね」

という躾や調教も、「教育」という言葉で表すことがあるでしょう。これらはすべて「教える」という在り方に属するといえます。ともすると、「技能教科」といわれる音楽科は、こうした色彩が濃いのではないでしょうか。

しかしそこに留まっては、「教育」としては不十分だと考えます。「教」「育」という文字の成り立ちから考えるならば、「教える」「学ぶ(ならう)」「引き出す」といった3つの面があるといいます。

「教える」というのは普通に思いつくことですが、さながら高いところから低いところに水を流すような行為で、教える人はかなりの知識や技能をもっていなくてはならず、教え込みによるならば、教わる人は教える人以上にはならない可能性が高いということ。

「引き出す」ためには、教師は子どもの特性を正確に見抜く眼力をもっていないといけない(例:長距離走に向いている選手に、あなたは短距離走に転向すべきだと指導して、芽を摘んでしまったらどうなるでしょう)ということ。これらの場合、教師は完璧でないといけない、ものすごく優秀な教師でないと務まらない、ということになります。しかも、まだ、教育の考え方として、3つの側面のうちの2つにすぎません。

「学ぶ」という、それも、子どもたちとともに学ぶ(これを駄洒落のように「共育(きょういく)」ということもあります)という在り方で臨むならば、〈1-2〉で紹介した(「豊か」についての)問答のように、教師自身も成長していけることになります。

将来云々、未来云々、といっても、みんなで未来を生き抜いていかねばならないとするならば、子どもだけが成長すればよいわけではなく、大人も成長しなくてはならないのであって、そこでは教師が一方的に教えるのではなく、ともに学ぶという在り方こそが鍵になるのではないかと考えるのです。また、そうすることで、教師は子どもたちの理解の仕方が掴めてきます。

駆け出しの頃の私は、とにかく「教師主導」で、子どもを楽しませる、分かりやすく工夫して説明する、と意気込んで、毎時間の授業をハイテンションで行っていました。しかし、ある出来事が、私を子どもとともに学ぶスタイルへと切り替える決意をさせました。