退職後、最初の一か月間を、僕は死んだように眠って過ごした。食事とトイレ以外動くことはなかった。薄くなった頭から、髪と一緒に何か別の、大切なものまでもが抜け落ちてしまったのだろうか。

三か月が経つと、体がすこしだけ動いた。僕は図書館へ行き、本や雑誌を読み、映画を観て過ごした。自分がハゲているのだと思うと、楽しいはずの時間も楽しくはなかった。

僕は次の職場を探すことにした。このままだらだらとした生活を送るよりも、きちんと働いていたほうが精神衛生上マシではないかと思ったからだ。次の勤め先はすぐに見つかった。知り合いのいない病院だったが、それでも前の職場よりは待遇がよさそうだった。

新たな就職先が決まり、すこしだけすっきりした感はあったが、それでも悪夢にうなされた。前の職場での努力がすべて徒労に終わったことを、まだ引きずっていた。

悪夢を一掃するため、僕は旅に出ることにした。行き先には北海道を選んだ。北海道は、はるかなる空と広大な大地のイメージがあった。寝袋とCDを車にのせ、悪夢から逃れるように横浜をあとにした。予定のない旅は、子どもの頃、家出して四国へ渡って以来だった。高速は一切使わない、一般道路だけの旅だった。

CDに合わせて鼻歌を歌いながら、街中を走った。眠くなったら車を停め、バックシートを倒して寝た。運転は、初めのうちは楽しかったが、道を進んでも街の景色はいっこうに変わらず、どこまで行っても悪夢から逃れられない気分になった。

だが、津軽海峡を渡り、北海道へ入ったとたん、急に開けた感じになり、がらりと気持ちが変わった。広大な土地、まっすぐな道路、遠くのほうまでいくつも信号が見える。走っていると、雨の降っている所と降っていない所がはっきりとしていた。たった今濡れていた道が十五メートル先では乾いていた。

旭川を越えて、美瑛(びえい)の丘陵地帯を越えると、さらに視界が広がった。

緑の丘陵。一面に広がるビートやメロンの畑。常緑樹の林。はるか遠くに続く山脈。

僕は心もちスピードをゆるめた。北欧を思わせる美しい景色は、思わず見とれて事故を起こしそうだった。車内に流れるバラードをバックに、初めて見る広大な空と大地は心を広くさせ、いやなことを忘れさせた。笑いが止まらない。何もかもが新鮮で、まだ見ぬ可能性が僕にも残っているように思えた。

富良野の駅前に車を停め、街中で豚汁を食べ、“北の国から博物館”へ入った。もう一日ここで過ごそうとコンビニで食料を買いこむと、パーキングに車を停めた。その晩も愛車の中で眠るつもりだった。車の中でコンビニ弁当を食べ、シートを倒してベッドにした。七時半か。横になる前にトイレへ行っておこう。

パーキングから道をひとつ挟んで公衆便所が見えた。

今夜は星がきれいだ。僕はゆっくりと道路に踏みだした。

次の瞬間、底の見えない闇が僕を包みこんだ――。