【前回の記事を読む】「衝撃と悲哀と言い知れぬ戦慄」複雑な思いに駆られた旧「登戸研究所」での一句
鷹女
千葉県成田山新勝寺は初詣、節分豆まきともなれば関東では一、二の人出を競う大寺である。最近久しぶりにこの辺りを歩く機会があり興味深い二体の像に会うことができた。
一つは境内の七代目市川團十郎座像である。成田山は江戸時代から市川家と縁が深い。折しも東京歌舞伎座では市川海老蔵がお馴染み『助六由縁江戸桜』を上演中である。大向こうから屋号「成田屋!」の掛け声が今日も何度も掛かることだろう。
もう一つは、和服姿の女性で、俳人三橋鷹女の立ち姿の像である。生誕百年を記念して成田市と地元有志が新勝寺参道に二十年前に建立したものだと聞いた。道理でそれ以前に参拝した時には無かった筈であった。
僧形行き交う成田山近くに育ち、新勝寺が創立した成田高等女学校に学んだ三橋鷹女は中村汀女らに並ぶ昭和期の代表的女性俳人である。結婚後、剣三の俳号を持つ歯科医の夫から俳句の手ほどきを受けたことが俳句に馴染むきっかけとなったらしい。
鷹女の句には歯科医の夫や子への愛情を詠ったものも多いが、何よりも特徴は日常性を超えた詩的情念の世界を見せていることだ。夫と外で食したものが美味しければ直ぐに家で再現してみせる程の料理の腕を持ち、裁縫も人並み以上だったという彼女は、良妻賢母の面を見せる一方、俳句という十七文字の枠の中で自我を奔放に公開するという異色の才能を見せた。
「一句を書くことは一片の鱗の剥脱である。一片の鱗の剥脱は生きているということの証である。一片ずつ一片ずつ剥奪して全身赤裸になる日の為に生きて書けと心を励ます。」(句集『羊歯地獄』自序より)
代表句を紹介する説明板の横に鷹女はあくまでも慎ましやかな表情を見せ楚々とした風情で立っている。
夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり 鷹女
白露や死んでゆく日も帯締めて 鷹女
千の虫鳴く一匹の狂ひ鳴き(遺作) 鷹女
二〇一四年七月