【前回の記事を読む】「五七五の短い詩型を二千年以上も前から使って」他の国には無い、日本人の誇るべき「俳句」文化

過ぎし日を

 

小田急線で多摩川を越え神奈川県側に入ると最初の駅名は登戸である。近くに明治大学の生田キャンパスがあり、緑豊かな生田緑地の坂をいつも学生たちが賑やかに行き来する。

第二次世界大戦当時、現在の大学の敷地は全て大日本帝国陸軍軍事工場であった。通称「登戸研究所」と呼ばれる場所である。当時ここで風船爆弾、中国にばら撒かれた大量の偽札の製造、化学兵器、毒物の研究などが秘密裏に進められていた。信じたくない七三一部隊の蛮行もこの研究所と無縁ではないと聞く。

現在、日本の負の遺産として当時の建物を利用した資料館が一般に公開されている。それ以外にも大学構内にはいくつかの当時の記憶の場所が残されている。動物慰霊の名目で、公にできない実験で犠牲になった人たちも供養するという「動物慰霊碑」旧陸軍所縁の「弥心神社」そしてその境内に立つ「登戸研究所跡碑」である。碑の裏に一句が刻まれている。

過ぎし日をこの丘に立ちめぐり逢う 元研究所員

季語も持たぬこの十七文字の俳句の優劣はわからない。ただ、この場所でこの文字を目にした時、衝撃と悲哀と言い知れぬ戦慄、それに言いようのない複雑な思いが胸を走った。

昭和六十三年、この碑が建てられる時、元研究所員たちが俳句を持ち寄り、その中の一句を刻んだものだそうである。戦後時を経て、ここに集った人々はどのような思いであったろうか。それが痛みであれ誇りであれ、ずしりと重い句ではあった。

弥心神社を下ると、隔てた道の向こうには学生たちの明るいざわめきがあった。五十年も昔に、ここにあった重い塊を若者たちは今どのように受け止めているのだろう。聞いてみたかった。

二〇一三年九月

冬鷗

 

昭和の俳諧師と呼ばれた秋元不死男は、横浜市の生まれである。戦時中、彼は横浜の鶴見製鉄所を訪れた際の一句が不穏であるという理由で横浜山手警察署に連行され二年間も拘留された。

冬空をふりかぶり鉄を打つ男 不死男

原因となった一句である。昭和十六年二月四日、彼が三十九歳の時であった。彼のこの句が、資本主義を打ち砕こうとする共産主義の意図を含んでいると疑われたのである。

こんな理不尽がまかり通った言語弾圧の時代があり、俳壇も巻き込まれたのである。句の中に「枯菊」とあれば、天皇の菊の御紋をないがしろにし不敬であると標的にされたともいう。国の意向に背くと無理やり判断された多くの俳人が治安維持法違反の名目で逮捕された。昭和十五年から十八年の間に起きた京大俳句に端を発する昭和俳句弾圧事件である。

軍部、警察の横暴を許した当時の日本は、国民の利を二の次に今ミサイルや核の実験を繰り返す某国と何ら変わりなかったと言えるかもしれない。横浜港大桟橋の傍らに秋元不死男の句碑がある。大さん橋ふ頭ビルの壁面に掲げられた句碑の銅板は初冬の澄んだ空の陽光を反射していた。

北欧の船腹垂るる冬鷗 不死男

折しも世界一周旅行中の豪華客船が、桟橋に見上げるような白い巨体を横付けし、デート中の何組ものカップルが見物している。

戦後、秋元不死男は、昭和五十二年に逝くまでに庶民的な好ましい句を数多く残した。彼の魂は今、平和な故郷横浜のこの地をきっと楽しんで散歩しているに違いない。

へろへろとワンタンすするクリスマス 不死男

子を()ちしながき一瞬天の蝉 不死男

二〇一三年十一月