【前回の記事を読む】古家の残る町並みや雑木林、野や畑中を抜ける道…。小野路は歴史のタイムカプセル
ひと恋し
NHKテレビで大河ドラマ『真田丸』を放送中である。
歴史好きとミーハーの性分に促されて真田家の史跡巡りの小旅行に出た。訪ねたいくつかの真田所縁の地はどこもかしこもここぞとばかりの観光客誘致の趣向であった。
道の両側に、ご存じ六文銭をあしらった赤い旗印が延々と靡(なび)く真田街道を抜け、群馬県から長野県に入り辿り着いた上田城は予想通りかなりの人出だった。
以前訪ねた時のしっとりした古城の雰囲気はどこへやら、縁日の出店さながら食べ物の屋台が並び、真田一族の特別展が開催され、城内の土産物屋には六文銭をデザインした赤い菓子箱やら小物が溢れ返っていた。
上田城は真田昌幸により築城されて以後、城主は仙石、松平と変わり幕末を迎えたが、真田の時代から約二百年後、上田藩江戸詰め藩士の二男として生まれたのが俳人加舎白雄である。
与謝蕪村、大島蓼太と共に中興の五傑、並び天明の六俳客とも称された彼は今も上田の名士として名を残している。
彼の句碑が、観光客で溢れかえる上田城の堀沿いの道の傍らにひっそりと立っている。
ひと恋し灯とぼしころをさくら散る 白雄
高校の教科書にもよく採り上げられている句である。小ぶりな白雄の姿のレリーフが句碑の傍らに並んでいる。
十九歳の時江戸から上田に戻り、豊富な教養を生かし、蕉風俳句を広め、古典や歴史、動植物の知識から、文字のくずし方まで指導、多くの門人を長野方面に持ち、彼は地方の庶民の文化を支えたのだと聞く。
「ひと恋し」の句は白雄が十年以上の推敲を重ね、特に大切にした一句であるらしい。一語一文字の変更も度々行ったという。
武士としてよりも俳譜の道に生きることを選び、同じく武士を捨て歌の道に生きた西行を慕い、吉野山を訪ねた時の句なのだそうである。「ひと恋し」の人とは不特定の人ではなく西行を指すのだということを思ったとき、句碑の前を一瞬涼やかな風が流れたような気がした。
二〇一六年 十月