【前回の記事を読む】横浜市北部に位置する「若葉台団地」の環境が最高なワケ

第2章 子どもたちが学校に通い、団地がにぎわっていた頃

長女の学年が最大数、次の年くらいから減少

若葉台の第一期入居は1979年3月、1丁目1、2、3、4棟に497世帯が越してきたといわれます。まるでメイフラワー号の最初の入植者みたいな言われ方をよくしますが、中学校はまだできていない、都岡中学校まで通わせるにもバスは1時間に1本、スーパーはないなどないないづくしで、1丁目の知人からその頃の苦労話をよく聞かされます。

それ以来2丁目、3丁目、4丁目というように、西へ西へと建物が広がり続け、同時に人口も増え続けていきました。わが家が引っ越してきて間もなく4丁目エリアに、若葉台西小学校、西中学校ができました。すでに若葉台東小学校が1980年、東中学校が81年、北小学校が82年に開校していたのですが、さらに2つの学校が創設されることになったのです。

西小の開校は1984年4月。同年3月末の私たちの入居とほぼ同時でした。児童数は最初の頃こそ少なかったものの、長男が入学する2年後にはかなりの数に達していました。本当に勢いが出たのは次男入学の頃からでしょうか。ちょうど家の前を通ってみんな学校に行くのですが、通学路が子どもたちでいっぱいでした。みんなつながるようにして学校へと向かっていくのを窓から見送ったりしていたものです。

長女の学年が入学した頃が、西小児童数のピークではないかと思います。一時この学年が5クラスにもなるという勢いでした。昼休みなど外から見ていても、校庭で遊ぶ子どもたちの様子には本当に活気がありました。反対に東小学校ではすでに児童数が減り始めていましたが、いずれ西小もそうなるというのが、まだピンときてはいませんでした。

運動会などもはじめの頃は児童数が少なかったので中学校と合同で開いていました。フォークダンスなど中学生に手を取られて踊る1年生の姿が微笑ましかったですね。ゆとり教育とかそういうのではないのですが、よく言われたのが小学校へ入るまで字は覚えなくていい、というものでした。

けれど長男が小学校に上がってみると、字はすでにほとんどの子が覚えていて、授業もそれを前提に進んでいるように思えました。ちょっとあせりましたね。字を教えようとしたことはあるのですが、イヤがって、私もどうせ学校で習うからいいかな、と甘く考えていました。若葉台の中学校は、東中、西中共に県の学力テストで、競い合って1、2位を取るくらいの教育熱心な地域といわれていて、皆さん良くできるお子さんばかりでした。