【前回の記事を読む】「太杜さま、持衰への罰はいかほどに?」しばし考えていたが…
第二章 「越の鳳雛」
振媛にとっては、辛く侘しい帰路の旅であった。険しい峠に達し輿から前方に眼をやると、外は冷たい雪が舞っており、越へ続く道の先はまだ遠かった。時は、雄朝津間稚子大王(允恭天皇)の晩年、壬辰の年(西暦四五二年)十二月のことである。
五年前、琵琶湖西の高島三尾の長が、宗家筋にあたる越前三国の首長である三尾君堅楲を坂中井の館に訪れた。その際に君の異母妹「振媛」の美しさに感心し、近江に帰国するや、主人にあたる彦主人王にその旨を伝えると、王はすぐに使者を送って切に望み、越より近江の高島に妃として迎え入れたのである。
近江は古より大王家につながる息長氏が威を張っており、長く誼を通じていた三国の三尾氏の支族に湖西の差配を任せていた。そして、その地を支配するために大王家の裔で息長氏とも血縁のある彦主人王が高島の「別業(枝の拠点)」において治めていたのである。
王は非常に治政に優れ、北は角鹿の湊にまで勢力を伸ばして半島との交易も差配して繁栄を誇ることとなる。しかし、彼の父親は昔、雄朝津間稚子大王の太子である木梨軽王子の不祥事に連座の咎で大和を憚り、一時、妻の実家である美濃の牟義都に逼塞していたが、大王の后妃、忍坂大中姫の甥にあたる縁で、実家の近江の坂田に引き取られる身となっていた。没後はその名も通称の「乎非王」としか伝わっていない。
その子である彦主人王は幼い頃から聡明で治世の才にも長けており、成人後は湖西の三尾氏を導いてその地の経営にあたることになったのである。二年後、振媛は身ごもり、産月が近づくと高島の水尾神社に産所を設け出産に備えた。
明くる庚寅(西暦四五〇年)二月。大変な難産ではあったが、元気で大きな男児が産まれた。振媛は産後しばらく臥せっていたが、ようやく床上げがかなうと彦主人王は子の名を「男大迹」と名づけて大いに祝った。産所の脇に大きな槻(欅)の樹がそびえており、周りの者からはその神木に因み親しみを込めて「太杜」と呼ばれるようになる。