第一章 「持衰(ジサイ)

なだらかな坂を登りきり峠に至ると、一気に視界が広がり、南に口を開けた入り江を囲む集落と、西陽に光り輝く海が眼に入ってきた。

「やはり任那(ミマナ)は良いなあ」

若者は声を上げながら右袖で額の汗をぬぐい、竹筒の水を一口ぐいっと飲むと、両手を高く挙げ腰を軽く伸ばした。この男、背が高く体躯もがっしりとしており顔も幾分厳つく、そして長旅のせいか髯も伸び始めている。ただ、海を見つめている眼差しは涼やかでわずかに愛嬌も窺わせ、会う者をして親しみを感じさせる印象を与えている。

その瞳は黒く輝き、人を魅入らせてしまうほど深く澄んでいた。その時の出で立ちは、無冠で髪を真ん中で分け()()()を結って左右の耳下まで垂らし、上衣(うわぎぬ)も袴もゆったりとした白麻で手首と脚の膝下を紐で結んでいる。

足には深めの革沓を履いていたが、長旅のせいか膝近くまで少し土色に染まっていた。首には管玉と勾玉とを交互につないだ御統(ミスマル)(クビ)(タマ))と、それとは別に一回り大きな碧ミドリ色の勾玉を胸まで垂らし、左手首にも勾玉の輪を付けている。

この男の風貌は倭人そのものであった。男の名は『男大迹(ヲオト)』、この物語の主人公である。

後ろから三人の従者が彼に追いついてきた。時は丁巳(テイシ)の年(西暦四七七年)八月初旬、朝鮮半島も倭国も動乱の時代を迎えている。彼を待ちかねたように前方の麓から、やや年配の男が近づいてきた。

額の汗を拭きながら、「()()さま、ご無事で……」と声をかけると、男大迹は笑みを浮かべながら、「おう、()(フク)、その後の手はずはどうか?」と尋ねた。致福と呼ばれた男はそれに応えて、「はい、船の支度もはかどり、百済(クダラ)の者たちも変わりなくしております」

坂井致(サカイノチ)(フク)(コシ)の雄族である三尾(ミオ)氏の家臣で、次代の首長として期待されている男大迹の側に長く仕えている。このたびも男大迹の百済入りの伴として随行していたが、帰路の途中の安羅(アラ)で別れ、一足早く帰国の手配のため船の待つ金海(キメ)に先行していた。