【前回の記事を読む】300人の科学者が集められ…開始された英米加共同の原爆開発

アメリカの原爆開発「マンハッタン計画」

徒労に終わったボーアの原爆国際管理提案

ナチスのヨーロッパ支配拡大とユダヤ人迫害を見て、ユダヤ人を母に持つボーアは一九四三年一二月にデンマークからイギリスへ逃れました。彼は米英によるマンハッタン計画を知ると、政策決定者たちに対して、原子力兵器についての人類史上の意味を知らせ、原子力の国際管理を説得するのが彼の義務であると考えました。ボーアの考えは次の二つの想定に基づいていました。

第一は、原子爆弾の出現は人類の過去の経験に類のない怪物となるということであり、第二は、このような怪物を一つの国が独占し続けうるとは考えられず、遅かれ早かれ競争相手国もこれを所有することになる。

このような前提からすれば、軍事力による安全保障という伝統的な概念は無意味化してしまうことになる。したがって原子爆弾は、政治家の選択範囲を根本的に限定してしまうものである、とボーアは考えました。

そこでボーアの考えによると、(1)人類に許される選択は、列強が、他のいかなる国も核兵器生産を行っていないことを相互に確信し合える世界を目指す政策をとるか、あるいは(2)常に世界全滅の亡霊に支配された世界をとるかのいずれかであり、その中間の選択はありえないというものでした(オール・オア・ナッシング〈生存か絶滅か〉の考え)。

新しい兵器の威力は、それほど強大である。原子力を何らかの形で国際的に管理することによって、列強にそれぞれの安全を保障しない限り、列強は自己破滅の種をまくような政策をとらざるをえなくなる、というのがボーアの結論でした。

したがって、原爆開発により新しい国際秩序を形成することが不可欠で、原子力国際管理のための協定を作り上げるのは、原爆開発が完成する前、そして戦争が終結する前にソ連を戦後、原子力計画の相談に参加させることによってしか達成できない、というのがボーアの主張でした(今から思うとボーアの方法しか道はなかったと思われます)。

このような信念のもとにボーアは、英米間を何度も往復し、一九四四年二月下旬、旧知のフランクフルター最高裁判事を通してルーズベルト大統領に、一九四四年五月頃にチャーチル首相に、一九四四年八月二六日にルーズベルト大統領に会い、直接訴えましたが、ボーアの原爆の国際管理提案は徒労に終わってしまいました。