初心を忘れてゴルフ三昧
仕事は順調に進み、論文を書く段階になると気持ちにゆとりができ、仕事以外の事を考え始めた。私にとってそれがゴルフであった。メルボルンのゴルフフィーはけた違いに安い。立派なパブリックコースでも18ホールを煙草のケントひと箱(1豪ドル=400円時代の42セント)でプレーできた。
仕事の帰りには3カ所あるどこかのコースでゴルフを楽しむことができた。コースの道路わきに車をとめ、カートを引っ張り出して適当な位置から無断でプレーを開始する。たいていの場合音もなく近寄ってくる車からゴルフフィーを請求されるが、30セント渡せば足りた。
週末は日本人ゴルフクラブでプレーし1年半余りでハンディが11までになった。スタート前にお互いにニギリを行うのが常であった。相手はメーカー派遣の金持ち、私はペーペーの留学生、入れ込み方が違っていた。ニギリで稼いだ賞金で妻にオパールの指輪とオメガの時計を買い与えて、得意になったものである。
滞在中、思い出すのはオーストラリア人のパーティー好きである。週末はどこかでパーティーがあり声がかかった。仕事仲間の集まりが多く、5~6人集まってはだべり、飲み、食べ、最後はオーストラリアには何故ハエが多いのか、皮膚がんが多いのかということに話が移り、皆言いたいことを言って散会することを繰り返していた。仕事の話は禁句のようであった。
自分の飲み分、多少の食べ物を持参したものである。そのままほろ酔い気分で車を運転し皆帰って行った。おおらかな時代であった。
旅行にもよく行った。多くはドライブであるが、内陸部への列車旅行は忘れられない。大陸中央部のエアーズロックのあるアリススプリングズまで列車で3日かけて出かけた。食事をして毎日変わらぬ景色を眺める旅であったが全く異質の世界を見ることが出来た。日本には新幹線が走っていたが、ゆっくりとした時間を忘れる旅であった。
エアーズロックは世界一と言われる割れ目の無い1個の巨大の石でそれが砂漠の中に忽然と現れた時は感動を覚えたものである。登山道の無い石の表面を死ぬ思いで登ったのも懐かしい思い出である。登山道の途中には、○年○月○日ここより○○氏が転落死との墓標が幾本も建てられていた。
日本であれば登頂禁止か、太い鎖が付けられている場所である。すべては自己責任なのである。留学ならぬ悠々たる遊学の中に身を置く幸せな時期であった。