【前回の記事を読む】関節リウマチが治る病気に…パラダイムシフトを引き起こした「MTX」とは?

広島県にリウマチ学を移植する

運命を分けた一夜―広島生活習慣病・がん健診センター設立へ

外来には相変わらず多くの患者が押し寄せていた。病室も90%体制を維持していた。私は相変わらず東広島市の長者番付の上位常連であった。何か手を打たねばならない。

頭に浮かんだことは、病院から渡り廊下でつないだ場所に7階建ての鉛筆ビルを建て、関節手術をしようということであった。7階を医局、5~6階を手術室、4階をリハビリ室、3階はレントゲンを中心とした検査室、2階は患者食堂を計画した。地元には県下最大の整形外科病院、県立障害者リハビリテーションセンターがあったが意に介さなかった。

当時、関節の手術対象は大変な数であったということが背景にあった。建物の基礎ができ、基礎配管が埋められた頃、県立障害者リハビリテーションセンターの水関隆也先生から、大学の若いドクターと今夜飲み会があるので先生出席しませんかとのお誘いを受けた。その席で、私は若いドクターとのつながりを持つと同時に、彼らの考え方を聞ける絶好のチャンスだと考えた。

若いドクター連中は酒の席で、私は将来膝を専門にやりたい、私は肩、私は股関節と言ってはばからない。私共の世代のドクターは一人で3カ所も4カ所も手術をするのは当たり前であった。しかしこれからの時代は違うという。これでは麻酔医を含めて常時4~5人のドクターを雇用せねば駄目だと感じた。広大からそれだけのドクターの派遣は考えられない時代であったし、今日のような派遣会社も存在しなかった。

その夜帰って、一睡もせずに考え抜いた。結論は“関節手術に手を出すのは危険だ、やめろ”ということであった。

翌日、現場責任者の青木所長に事情を話し、この建物は手術棟にはしない、健診センターに切り替えると伝えた。

2階は患者食堂、3階は健診検査フロアーと診察室、4階は健診事務室、5階は医局と婦人科診察室、6階は予備室、7階は健診受診者食堂と具体的に図面を書いて渡し、工事をそれに合わせるよう指示をした。当時は新しい事業を始めるとき、10人が10人老人医療に向かっていた。しかし私は、西条中央病院時代の経験から、老人医療は除外項目で眼中になかった。

健診に関しては、バスの車列を見て以来、いろいろと考えてはいたが具体的な案は当時何一つ持っていなかった。私は決断が速い。即やるのが私のやり方である。それも日頃いろいろな可能性を考えていたからこそ出来ることであった。

青木所長はびっくりしていたが、的確に迅速に対応してくれた。結果的に私のこの夜の判断は大正解となった。私と病院の運命を分けた一夜と言っていい。この夜私が考えたことは、建物は立ち上がっている、手術棟で失敗して大金が毎年流出するより最悪空にしておいてもいい、健診はじっくり腰を据えて考えればいいというものであった。

事業活動というものは最悪の事態を予測して、本体がしっかりしているうちに早く手当てしたものが生き残るということである。