死学

最近の中学生は、「死」という言葉をほとんど抵抗なく口にするように思う。何か辛いこと、苦しいことに直面するごとに「死ぬ」「死んじゃうよ」と言い、時に腹立たしい態度を示す相手には、躊躇なく「死ね」とののしる。

いったい、いつから、このような言葉の刃物を安易に振りかざすようになってしまったのか。私と同様な嘆きを感じている方が多いのではないだろうか。「死」とは何なのか。「死ぬ」とはどういうことなのか。彼らは本当にわかっているのだろうか。

私が「死」というものを初めて認識したのは、まだ五歳の時、病床にあった母が逝く折りだった。母が動かなくなってしまった後、大いに泣き叫んだのは言うまでもないが、私は、遺体となった母がしばらくの間、そこにいてくれるものだと思ったのだ。しかし、母の遺体は間もなく棺に納められ、火葬場に運ばれて私の目の前で焼かれた。

現代のものと違い、半世紀近く以前の火葬は、まだその炎をのぞき見ることができたのである。母の遺体が、真っ赤に燃える炎に包まれているのを見た時、改めて、「母は死んだのだ」という現実を自分のものにすることができた。

もしかしたら、その当時の父は私に、その現実をはっきりとわからせるために、火葬場へ連れて行き、あえてその光景を見せたのかもしれない。その父も、十年前に亡くなった。

現代の少年たちに、もっとも必要なのは、「死学」です。著名な小説家、曽野綾子さんの言葉である。死というものの大きさと重さ。人間というもののはかなさと気高さ。それがわかっているのならば、簡単に「死ぬ」「死ね」などとは口にできないと思うのだ。「人は、死んでしまったら、もう二度と会えない。会うことはできない」。そのことを、改めてわかってほしい。認識してほしい。人生の晩年にいたって、改めてそのように思う。