「瀧山千句」と賞された連歌会

滝山の城の差配だけではなく、滝山城のある摂津下郡一円の支配権をも長慶様からお預かりすることとなり、儂は〈守護代〉の身分となった。土豪と呼ばれる小領主階層から出世して守護代となった儂は、まことに果報者である。皆、長慶様のお陰である。

長慶様より戴いたものは、城と領地だけでなく、有り難くも、竹内秀勝、加成通綱、本庄孫三郎ら長慶様の御家来衆の中から選りすぐりの者を下さり、既に家臣となっている瓦林秀重や喜多左衛門尉らとともに〈滝山衆〉と呼ばれる儂の家臣団を編成した。

長慶様への御礼として、儂は滝山城に長慶様をお招きした。

「御屋形様、本日の御成りはそれがしと、ここに控えし滝山衆にとりましては身の誉。今宵は色々と趣向を凝らしておりますれば、どうぞご堪能くださいませ」

「弾正忠、今宵は当代一流の連歌師を招いておるとか。楽しみにしておるぞ」

日頃から連歌に親しむ長慶様のお声は、珍しく浮かれていらした。今宵は連歌界の第一人者の谷宗養、元理、堺の等恵、武野紹鴎の弟子の辻玄哉、三好家家臣の半竹軒のほか、池田長正の重臣の池田正秀などの摂津の有力者が集っていた。

「難波津の言の葉おほふ霞哉」

連歌会は長慶様の発句に始まり

「いまを春辺の浦のあさなぎ」

儂が拙く次いで

「雁帰る波の遠山月みえて」

元理が続けた。

水無瀬川、玉江の蛍、湊川の納涼、初島の霧、須磨の月、生田の鹿、布引の滝などの摂津の名所にちなんだ歌を詠みあい、座は大いに盛り上がった。

長慶様の連歌の座の様子は常の人とは異なり、いつもながら屍のようである。例えば、膝の傍らに扇を置き、暑い時は静かに右手で扇を取り上げ、左の手を添えて、扇の折れ目を三つ四つ開き、音を立てずに扇ぐのである。そしてまた、左手を添えてたたみ、元の場所に置く。そしてその置いた場所は畳の目一つも違わなかった。

昼下がりから始めた連歌会は、千句を詠み終える頃にはとっぷりと日が暮れて月夜となり、その後、その闇を背景に薪の弾ける音に彩られる中、観世元忠による能に興じた。この夜の連歌会は『瀧山千句』と賞され、この日の御成りは世の人から『嘉辰令月』と讃えられた。

「弾正忠、そなたのような良い兄を持った甚介が私は羨ましい。実を言うと私は、出会いの日から今日までそなたを我が兄のように思うてきた。これからも私を支えてもらいたい」

そう言い置いて長慶様はお帰りになられた。

「兄のように思うている」などと畏れ多いお言葉をいただき、儂は唯々その場にひれ伏すばかりであった。