【前回の記事を読む】自分の見舞いに来た18名を皆殺し!長慶の「被害妄想」に絶句

永禄七年(西暦一五六四年)

曲直瀬道三から、「もう、いよいよ」との知らせを受けて、儂は再び飯盛城に登った。城のある飯盛山は濃い緑が鬱陶しく、草いきれが胸を押し付け、熱風が肌を焼き、かまびすしい蝉の声が儂の耳を傷つけた。

館に昇り、長慶様の寝室に入ると、道三の脇に、頬のこけた老人が敷かれた布団に寝かされていた。

『これが御屋形様か』と、儂は我が目を疑ったほどである。

「御屋形様は、今年、お幾つになられたろうか」

独り言のように儂は呟いた。

「四十三歳におなりです」

「そうよなぁ、儂よりひと回り以上も歳が御若いのだから」

これが、あの天下人の三好長慶なのか。凝視できずに、儂はその老人から目を逸らした。

曲直瀬道三、半井驢庵などの数人の名医師が医術の粋を尽くし、薬師の調合する妙薬を施し、陰陽道の道士や大寺院の高僧も種々の延命祈願を行ったが、長慶様は目に見えて衰弱し、いよいよ絶望的な御容態となられた。近習たちは皆涙を(こら)えて、日夜寝食を忘れて看病にあたっていたのであるが、七月四日、ついに亡くなった。

河内平野の遠く淡路の向こうの瀬戸内に夕日が落ちても、蒸すような暑さは相変わらずで、虫らもいたる所で(きょう)声明(しょうみょう)しているような夜であった。

長慶様の死は秘匿された。

義興様の死と保子の死。涙が枯れるまで泣いた儂であったが、此度は涙の一滴も(こぼ)れなかった。涙だけではなく、弔いの念仏も、天下の仕置きを放り出して逝ってしまわれたことへの恨み言も、絶望のため息すらも出なかった。

翌朝、館を出て、独り本丸曲輪に登った儂は、飯盛山の眼下に広がる河内平野を眺めながら、また昔を思い出していた。

「民草が安寧であれば、それで良いのです」と、初めてお逢いした時に長慶様は仰いましたな。

「このまま乱世が続いて良いはずがない。戦のない世を創る。誰かがそれをやらねばならないのです。その〈誰か〉に私が成ろうと思うのです」とも仰いました。

「長慶様、あなたがやらないのであれば、誰がこの眼下に住まう民草の安寧を守るのでしょうかぁ~」

ようやく出て来た恨み言を、儂は有らん限りの声を上げ、河内平野へ向けて言い放った。そして、やっと……むせび泣いた。昨年から今年にかけて、これまで、良しにつけ悪しきにつけ、長慶様と儂に影響を及ぼしてきた方々が、相次いで世を去った。

何かにつけ長慶様に反抗的であった将軍家直臣の上野信孝が死に、山城国の淀屋形で細川氏綱様が逝き、そして摂津富田荘の普門寺で前管領細川晴元が黄泉路へ旅立った。

人間五十年と言われるこの浮世で、儂も齢五十七を数えている。そしてこの儂をその浮世に残して、愛する人も、嫌いな奴も、逝ってしまった。一つの時代が終わったような気がしてならなかった。

この悪夢のような二年の間に色々なことが有りすぎて、疲れ果てた儂は一線を退くことに決めた。が、長慶様の死を秘匿している間はそれを気取(けど)られぬよう、もうひと頑張りする必要があった。