永禄八年(西暦一五六五年)

長慶様が亡くなられてから半年が過ぎようとしていたが、長慶様の死を気取られぬよう、以前と変わらぬフリをしていた儂は、正月の末、多聞山城の四畳半の茶室に奈良の松屋久政、堺の若狭屋宗可、津田宗達、松江隆仙、千宗易を招いて茶会を開いた。ちなみに宗易は初めての参加である。

若狭屋宗可が茶頭を務め、茶は自慢の付藻茄子に入れた〈別儀〉を点て、一汁三菜の料理を儂は振舞った。  会の締めくくりに、政事(まつりごと)は倅の久通に任せて、儂は隠居するつもりであることを皆様に告げた。そして二月二日、広橋国光卿を通じて、儂は朝廷にも暇乞(いとまご)いをした。

皐月の(つい)(たち)、長慶様の後を継がれた三好重存様は、三好長逸と久通を従えて上洛した。

その折、将軍義輝公より偏諱を賜り、重存様は〈三好義重〉に、倅の久通は〈松永義久〉に改名した。

偏諱は普通、上杉輝虎や毛利輝元がそうであったように、貴人の名の下の字をいただくのが一般的であるが、此度のように将軍義輝公の上の字の〈義〉を賜ったことはまことに名誉なことであり、多聞山城でその報告を受けた儂は、若い世代の栄達を喜んだ。