【前回の記事を読む】自分の見舞いに来た18名を皆殺し!長慶の「被害妄想」に絶句
永禄八年(西暦一五六五年)
ところが、それからひと月と経ない五月十九日の夕暮れ時、驚天動地の知らせが多聞山城にもたらされた。
「殿、義久様より火急のご使者が参っております」
本庄孫三郎が慌てた様子で使者を居室に連れてきた。
「火急とは何事か。入れ。聞こう」
二人を部屋に入れた。
「申し上げます。本日、三好義重様を総大将とし、我が主は三好長逸様、三好宗渭様、石成友通様とともに二条御所へ討ち入り、公方様を討ち取りましてございます」
使者は悪びれる様子もなく、泰然と半ば誇らしげに口上した。
「馬鹿な。儂は何も聞いておらぬぞぉ」
事と次第をすぐには飲み込めず、気が動転してしまった儂は、つい使者を怒鳴りつけた。
「だいたい何故、公方様を討たねばならぬのだ。つい先日には公方様より偏諱を賜り、儂は喜んでいたところぞ。御恩を受けておきながら、公方様を弑逆奉るとは、何を考えておるのだぁ」
強い口調で使者に問いただしながら、儂は自問して心を落ち着かせ、逆に使者の泰然は恐縮へと変わり、身を硬くした。
「詳細を聞かせよ」
「恐れながら申し上げます……」
使者が畏まって報告した事変のあらましはこうである。
五月十八日、飯盛城から一万の兵を率いて上洛した義重様は一条小川の革堂行願寺に本陣を置き、長逸は知恩寺に、義久と改名した久通は相国寺常徳院にそれぞれ陣取った。長逸の陣には、石成友通と〈宗渭〉と号した三好政勝が同陣。久通の陣には海老名家秀、河那部高安、伊丹玄哉ら松永家の重臣が加わっていただけでなく、儂の学問の師であり友人でもある清原枝賢卿もいたという。
ただ、この日の兵らには緊迫した感はなく、一度は避難した公方様は二条御所に戻られ、公家の山科言継卿と勧修寺晴右卿が義重様の元に陣中見舞いに訪れたほどであった。
ところが翌朝辰刻、事態は一転。将軍義輝公のおわす二条御所へ三好の軍兵が雪崩込み、寡兵の幕府軍は抵抗らしい抵抗もできないまま、牛刻に義輝公が雑兵に討ち取られると、弟君の鹿苑寺周暠様、母君の慶寿院様、奉公衆の進士晴舎と義輝公の側室となっている晴舎の娘などもご生害なされた。
剣豪塚原卜伝の兵法を会得していた義輝公はこの時、自ら薙刀を振るい、刃が傷めば太刀に持ち替えて奮戦したという。
荒川輝宗、杉原晴盛、武田輝信、小笠原稙盛など、この時三好軍に抵抗した奉公衆は悉(ことごと)く討ち取られた。が、幕府政所執事の摂津晴門や伊勢貞助などの無抵抗の奉公衆、奉行衆も多くおり、彼らは殺されることもなく、事変の直後には長逸の陣所に挨拶に赴いたという。
「馬鹿なぁ」
報告を聞き終えた儂は、ため息ともつかない言葉を漏らした。
確かに将軍義輝公は、行うべき改元を未だに行わなかったり、訴訟において誤った判断を下したり、幕府の奉公衆や奉行衆に人気がなかったし、多くの者が義輝公の政治能力の劣りを感じていた。
『何故この儂に一言の相談もなかったのか。儒学者の枝賢殿が同陣していながら、何故将軍弑逆を止めなかったのか。儒学すなわち儒教の理念は〈仁義礼智信〉ではないのか』
とにかく使者の報告を聞いただけでは、儂には到底理解しがたいことばかりで、善後策を考えることもできなかった。そして何より隠居したことを儂は悔いた。
差し当たり儂にでき得る手立てとしては、義輝公の弟君で奈良興福寺一乗院門跡におわす覚慶様を匿うほかなかった。