永禄八年(西暦一五六五年)
当然、〈御小袖〉の引渡しについては、覚慶様は難色を示されたが、「止むなし」とご納得いただき実行した。
儂の目論見通り、覚慶様のお命をとりあえずは繋ぐことができたが、
「奈良におわしては、覚慶様のお命の保証はできませぬ」
という久通からの知らせを受け、儂は更に計策をめぐらせた。
そして七月廿八日の夜、三淵藤英、細川藤孝、一色藤長ら、亡き義輝公の側近らを多聞山城に呼び寄せた。
「三淵殿、そして皆様方。よくぞ今日までご無事でおられた」
事変直後の苦難の日々を察して、儂は方々を労った。
「此度、覚慶様がご無事でおれたのも、ひとえに霜台殿の御計らいによるもの。我ら一同、御礼の言葉もござらぬ」
藤英が謝意を示して頭を下げ、他の者もこれに倣った。
「なんのぉ、倅どもの浅知恵による此度の事変には、それがしは一切関わってはおらぬが、知らなかったでは済まされぬこと。お詫びのしようもござらぬ」
儂も頭を下げ、言葉を続けた。
「和田殿の計らいで、ひとまず甲賀の和田屋敷へ落ちていただく手筈となっており申すが、その後はいかがなされるおつもりじゃ」
「はい、六角承禎殿のご助勢を頼もうと思うております」
此度の計策に影となって働いた和田惟政は近江甲賀の国衆で幕府奉公衆でもあったが、此度の事変の前に、些細なことで義輝公の不興を買い、甲賀に謹慎していた。それゆえ「この時にこそ」と名誉挽回に意気込み、覚慶様の脱出に積極的に協力していた。
惟政の働きかけにより、近江守護の六角承禎を味方につけることは叶ったのであるが、承禎は自身の居城である観音寺城に覚慶様を匿うことについては難色を示しているということで、しばらくは甲賀の和田屋敷に御逗留いただくことになっていた。
「では、これより興福寺へお行きなされ。それがしは表立っては動けぬが、一乗院の警護の者には既に言い含めており申す」
一縷の希望を繋ぐために、決死の覚悟でいる亡き義輝公の側近らを、儂は祈るような気持ちで見送った。
ちょうどその直前、切支丹宣教師追放の詔勅(女房奉書)があり、それがなぜか儂の働きかけによるものということになり、お陰で切支丹から儂は酷く嫌われた。世間では、此度の事変の首謀者は、この儂ということになっているらしいが、どうやら切支丹どもが、そう言い触らしているらしい。
「これらの謀反人の筆頭者は弾正殿と称し、当国とその他多数の国々を従え、我らが弘めるデウスの教えの大敵である」
《『ルイス・アルメイダの書簡(永禄八年)』より》
この事変の後、三好義重様は将軍義輝公からいただいた名を捨て、長慶様の〈遺志を継ぐ〉という意味を込めて〈三好義継〉と名を改め、倅の義久は元の〈松永久通〉に名を戻した。