今回の人生では少し成長せねば……

私という人間の本質であるような傾向性は変わらないとしても、これまでの何千、何万年の間、何度も生きた「私」よりは幾分かでも精神性を高め、信仰心をも持ち、少しは成熟した人間に変わろうとしていたのではないだろうか。これまでの楽しく、好きなことだけをするといった生き方でなく、また「私はこれでいいの」「私はこうしたいの」といった我儘勝手な考えや生き方をいくらかでも修正して、周囲の人々と融和し、ほかの人の考えも理解する。そして少しは真剣に人生に向かいあい、神様の求める正しい心や考え方というものを学ぼうとしていたのだろう。そうでなくては母のような、まるで尼さんのような、また、僧侶のような人物のもとに生まれてくるはずはない。

私は若いころ、よく母に「もっと違うお母さんの方がよかった」という、まったく親不孝な言葉を何度もぶつけたことがある。母はありがたいことに陽気で大胆な人だったが、その本質は私とは全く違うタイプだった。母の心はひたすら神様に向かっていた。私は「尼さんか、家庭教師の家に生まれてきてしまった」と本心から何度も不満に思った。

信仰心の塊のような母に抵抗しながら、それでも母の「神様が人の生き方に求める心」を教えようとする言葉をシャワーのように浴びせられながら育つことになったのだから私は今回の人生では「回心」を求められていたに違いないとしか思えない。