娘を、神を敬う人間に育てたい
そしていまになって感じるのは、母は私の心に「信仰心」を育てるという約束のもとに娘として私の魂を迎え入れてくれたにちがいない、ということだ。
母は私に何教や何会へ入れとか、仏教だとか、キリスト教だとか、特定の宗教を強要するというより、我が子を「神を敬う人間」に育てたかったのだと思う。人間を超えた存在があることを意識するだけで人は謙虚になれるはずだ。そしてまた母の願いは、神を信じ、敬い、神に全託して生きる人生の、その心の安寧を私たちにも与えたかったのだろうと思う。
母はよく神様を信じるということを「山の登り方」と同じだと言っていた。「山にはいくつもの登り口がある。どこから登ってもいいけれど、そこから正しい頂上に着くかどうかが大事」というのだ。どこの口から登ろうと、頂上におられる正しい神にたどり着けばいい、というわけである。何教でなくてはだめ、というような偏狭なところのない母の考え方をその当時から私はいいなと思っていた。
ただ母自身は一種の“宗教渡り鳥”だった。自分の心が求めている神を求めてずいぶんいろいろな遍歴をしていた。「ここは違う」と思うと突然の嵐のように座をけって飛び出してくる。どんなに慰留されてもそこの会へ戻るということはなかった。私たち家族は母の遍歴に連れて、新しい神様の教えを説かれるというわけである。