「回心」(私は「えしん」と読むのが好きなのだが)、これはまた「かいしん」でもある。「かいしん」とは辞書によれば、「生活や世界に対する態度を改め、信仰の生活に入ろうという、志向の転換」ということだが、大雑把に「心を改める」と解釈してもいいのではないだろうか。

例えば、『告白』を書いたアウグスティヌスやキリスト教では聖パウロの「回心」が有名だ。

パウロはキリストの十二使徒ではなかった。それどころかキリストの弟子たちを迫害していた側の役人だった。それがキリストの死後、天上から自分に呼びかけるキリストの声を聴き、奇跡を目の当たりにすることで「回心」するのである。これが「ダマスコの回心」と呼ばれる有名な回心だ。パウロは大変教養のあるひとで三カ国語が話せたため、キリスト教を広い世界に広めることに力を尽すことになった。

こうしたパウロのような大聖人の劇的な回心ではなくても、私のようなささやかながら少しでも心を改めようというような回心もあるだろうと思う。

私の魂を「回心」へ向かわせるためのプログラムは誰が計画したのか。

強力な導き手としての母の存在。その母の力を自由自在に発揮させるための父の在り方。そのうえ父は私が社会へ出たとたんに亡くなるのだ。

人に甘え、頼りたい私が何としても甘えることのできない環境が作られる。私自身も参加したプログラム作りか、少なくともその計画を受け入れたことは確かだとしか思えない。

そうでなければ、まったく自分の本質とはかけ離れているとしか思えない母の指導に「いやだ」「いやだ」といいながら、それでも逃げ出すことなく長年案外素直に母の言葉を聞き続けるということはなかったはずだからだ。表面上は抵抗しながら、それでも、心の深いところでは自分の約束を知っていたからだろう。肉体の私は嫌がって逃げ出したいと思っているのだが、魂の私はその教えを聴こうとしているため逃げさせなかった、という感じがするのである。

※本記事は、2021年6月刊行の書籍『母の説法 人生で大切なこと』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。