一  天文八年(西暦一五三九年)

はじめ右筆として範長様の御側近くに仕えた儂は、翌年には奉行人の一人として実務を任され、〈彦六郎〉では政務に都合が悪かろうと〈弾正忠〉の官途名の使用を許され、〈松永弾正忠久秀〉というたいそう立派な名乗りで、儂は政務に勤しんだ。

天文十一年のこと。十年もの間、河内国を中心に畿内で権勢を誇ってきた木沢長政であったが、範長様が頭角を現し、範長様が奉ずる細川晴元様が力を持ちはじめると、長政は危機感を覚えたのか、晴元派に戦を仕掛けてきた。

はじめの三ヶ月こそほぼ互角に睨み合ったが、河内南半国の守護代である遊佐長教が晴元派に与したことにより、形勢は晴元派が優勢となり、結局、河内国の太平寺付近での会戦で三好・遊佐連合軍が木沢勢を討ち破り、長政を討ち取った。

三好軍の中にあって一隊を任された儂ではあったが、この戦では何ら働きをみせることはできなかった。

私事だが、この頃儂は姉の嫁ぎ先の縁者で、ひと回り以上も歳の離れた千春という名の若い女を二度目の妻に迎えた。見目麗しいとか、男好きのする容姿だとか、そういうことはなく、外見はごく有り触れた女であるが、その心根は至極やさしい(たち)で、その穏やかな性格と出過ぎない賢さに、今後儂は、何度も助けられ癒されることになる。翌年には嫡男を()し、儂の幼名と同じく〈彦六〉と名付けた。