関東の鎮撫Ⅱ

戊辰戦争が始まった当時、房総半島には1~2万石、大きくてもせいぜい5万石程度と小藩ながら、譜代の大名がひしめいていた。

江戸城無血開城に不満で脱走した旧幕府軍の一部は、上総の木更津辺りに屯集し、近隣の諸藩に対して、譜代の藩として徳川の恩顧に報い、兵員や軍資金を提供するようにと圧力をかけた。

諸藩の中には、請西藩のように藩主自ら脱藩して藩ぐるみで旧幕側につくものもあったが、ほとんどは新政府への恭順を誓い、旧幕府軍側からの要請に対しては、少人数の要員を脱藩者という形で差し出すなど、当座を凌ぐのに苦しんでいた。

しかし、この旧幕側への密かな合力も、いったん新政府側に知れると、重臣の切腹など血を見ずにはすまないことになった。

現在の木更津市の外れに陣屋を構えていた譜代1万石の請西藩の藩主林忠崇は、前年に藩主を継いだばかりの21歳、徳川に忠義を尽くし新政府軍に抵抗することに決し、出陣に当たっては、不退転の決意を示すべく、その陣屋を焼き払った。

ただし、仮病を使う者や逃亡した者もあり、藩士全員が参加したわけではない。一方広部与惣治のように恭順の立場で林に諫言するも、聞き入れられないと知ると、林と行動を共にし、後に討死した藩士もいた。

林に対しては、複数の旧幕脱走兵のグループから共に戦うよう働きかけがあったが、林は、人見勝太郎と伊庭八郎の率いる遊撃隊を、隊長の人物も優れ、また隊の規律も取れていると認め、これと合流することにした。

閏4月3日朝、彼らは先ず江戸湾の海防のために設けられていた富津台場へ向かった。その数は、請西藩が凡そ60人、遊撃隊が40人弱であった。

当時富津台場は上州前橋藩が預かっていたが、林たちはその陣屋を囲み、兵員や武器・兵糧を提供するよう要求した。

応接した前橋藩家老小河原左宮は、これを拒絶したが、力ずくでもと強要されて切腹し、陣屋は開城となった。林たちには兵員20人ほどが脱走の形をとって参加したほか、大砲・小銃・軍資金などが提供された。

林らは、それから房総半島を、途中飯野藩、安房勝山藩などから人員その他の補給を受けつつ南下し、館山では総員170名ほどになっていた。

館山からは、船で海を渡り、閏4月12日、相模の真鶴に上陸した。箱根の関所を占領して江戸へ向かう新政府軍の流れを絶とうというのである。

上陸すると林は、即日小田原に入り、小田原藩の家老渡辺了叟に会い合力を求めた。これは断られたが、当時の小田原藩の藩論はなお佐幕・勤皇で揺れ、藩主大久保忠礼も、進撃してきた東海道先鋒総督にすでに恭順の態度は示していたものの、依然腰はふらついていた。

小田原藩に断られた林たちは、次に伊豆の韮山代官所に向かったが、そこでも協力は得られず、甲府を目指したり、それも途中から引き返したり、しばらく一帯をうろついた後、沼津に滞陣した。この頃隊員は300名ほどに膨れていた。