肥前藩 宮さん宮さん
幕末期の蘭学塾として有名な大坂の緒方洪庵の適塾の入門者について、緒方富雄『緒方洪庵伝』の付録にある適々齋塾の「入門帳」というのを見ると、そこに見られる637名の入門者の中で、「肥前」とあるのが35名いる。次いで防州が30名、長州が24名、土州が11名となっている。これに対し、奥羽越同盟藩では、仙台・米沢・長岡が各5名前後、盛岡が2名、秋田・会津・二本松が各1名である。
また、1855年に幕府が開設した長崎海軍伝習所の最初の伝習生130名の内、幕府の派遣生が40名、残り90名が各藩からの派遣生であったが、48名は肥前藩からであったという。それ以前1824年にシーボルトが長崎に開いた鳴滝塾でも、海原徹『近世私塾の研究』によると、塾生50名中「肥前」とあるのが9名、次が周防の5名となっている。
もちろん、東北に近い江戸の塾や下総佐倉の順天堂塾などでは、これとはやや様相が異なっていたかもしれない。
江戸に伊東玄朴の開いている象先堂という蘭学塾があった。伊東栄の『伊東玄朴伝』の付録「門人姓名録」を見ると、そこには406名の名があり、肥前の45名、長州の18名が入門者数の上位にあるが、盛岡からも10名を超す入門者があった。肥前が多いのは、伊東が肥前藩の出ということにもよろう。
なお、肥前藩の勉強好きは洋学に限ったものではなかったようである。鈴木三八男の『「昌平黌」物語』によると、1846年から1865年の20年間に幕府の昌平黌に学んだ各藩からの学生は505名いるが、出身藩別にこれを見ると、薩摩藩の21名、大村藩の20名、会津藩の19名、姫路藩と高松藩の16名が学生数の多い藩として名を連ねるが、肥前藩は40名、支藩の小城藩などからの学生を含めると48名と、ここでも圧倒的な1位となっている。
各藩の藩校で当時どのような授業が行われていたかということも、興味がある。
会津藩については、後に初代の京都府会議長となり、また同志社大学の創設に尽力した山本覚馬が江戸の佐久間象山の塾で学んで帰国し、藩校日新館で洋学の講義を始めたと言われ、それは1857年と見られるが、その後どの程度実績があがったかは不明である。
笠井助治『近世藩校の綜合的研究』を見ると、掲げられた80の藩校の内4割の藩校に蘭学・洋学といった学科が認められる。奥羽越同盟諸藩でいえば、盛岡の作人館、会津の日新館、仙台の養賢堂にそれらの科目が見られる一方、秋田の明徳館、庄内の致道館、長岡の崇徳館には洋あるいは蘭のつく学科は見当たらない。
学科はあっても、同じ藩校内の儒学者から強い反発や抵抗を受けるということがよくあったようである。
一方の肥前藩であるが、その洋学の教育と実践の様子を見ると、次のようになる。