関東の鎮撫Ⅰ
徳川慶喜が水戸に去り、薩長軍、もうこの頃は新政府軍と言ってもよいであろう、が江戸城に入っても、未だことは終わりという訳ではなかった。
江戸城の無血開城に不満な旧幕府陸軍の兵士たちは、新政府軍に抵抗すべく、城から武器を奪って脱走し関東各地に屯集した。旧幕府歩兵奉行の大鳥圭介や旧幕府歩兵頭の古屋作左衛門がこれを指揮していた。
海軍でも旧幕府海軍副総裁榎本武揚が旧幕府の軍艦を品川沖から館山方面に移動させた。
大鳥や古屋の隊は関東北部から越後にかけて遊弋し、各地で新政府軍と戦い、大鳥の隊は4月19日には一時宇都宮城を奪い、古屋の隊は4月の25日頃には越後南端の高田藩や隣接する信濃の飯山藩の領域まで入り込んだ。
その後新政府軍によって共に次第に北方に押し返されても、会津や奥羽、さらには箱館と、新政府軍に抵抗を続けた。榎本の抵抗も後の箱館戦争まで続いた。
多くの藩主が新政府に恭順の姿勢を示す中にも、旧幕府のお膝元である関東では、さすがに旧幕府の恩顧に殉じるとして新政府軍と戦う姿勢を示す藩主や藩重臣もいた。
江戸の市中といえども、上野の山には2千とも3千とも言われる旧幕府に忠節を誓う旗本や諸藩の藩士たちが集まり、彰義隊と称し、新政府軍に対し気勢をあげていた。
桑名藩主の松平定敬がその分領である越後の柏崎に立て籠もったことは先に触れたが、越後や、会津藩の位置する奥羽地方には、なお不穏な空気が漂っていた。
一方の新政府軍側は、兵力不足が否めず、江戸の治安維持に旧幕側の助けを求めざるを得ない状況で、旧幕側に足元を見透かされる場面もあった。
事態を心配しあるいはこれに不満を持った京都から、4月27日には軍防事務局判事の長州藩士大村益次郎が、さらに閏4月10日には関東監察使として副総裁の三条実美が江戸に派遣されて来た。
5月15日、新政府軍はその大村の指揮で上野の山を攻撃、彰義隊は思いの外簡単に敗れ、雲散した。
この後の新政府軍の戦闘指揮権は西郷から大村に移ったようで、西郷は間もなく戦線を離れ、増援軍を集めるためとして鹿児島に帰る。