次に彼が姿を現すのは、ほぼ平定の終わった後の8月の越後においてであった。

譜代1万8千石の結城藩では、江戸藩邸にいた藩主水野勝知が江戸家老の水野甚四郎とともに佐幕の態度を示し、藩の存続のため恭順を勧める国家老の小場兵馬など国許の家臣たちと対立した。

勝知が彰義隊と組むなど佐幕の立場を強めると、小場たちは藩主の交代を図り、前々藩主の子勝寛を新藩主とすべく、新政府に嘆願した。

この動きを知った勝知は、彰義隊の応援を得て結城に向かった。小場らは勝知の入城を拒んだが、3月25日、勝知は城を攻撃、恭順派を破り城に入った。

しかしそれも束の間、4月5日には新政府軍の攻撃を受け、勝知は城を追われ、甚四郎は自首して、4月7日、切腹を命じられた。その7日後、小場は藩を混乱に陥れた責任をとるとして切腹した。

勝知は5月20日に江戸で捕らえられ、12月7日、隠退、継嗣の奏請、封地の1千石減封が命じられた。翌年5月、反逆首謀者として、家老の水野又兵衛、重臣の茂野喜内が処刑された。

譜代4万8千石の関宿藩は、藩主の久世広周が坂下門外の変後幕府の老中職を解かれて蟄居謹慎を命じられ、子の広文が藩主を継いだ。

この時広文は10歳であったというから、維新時もまだ若く、しかも病弱で江戸にいたという。ために藩の統制が取れず、藩では遅くまで恭順派と佐幕派との激しい対立が続いた。

恭順派は国許に多く、元家老の杉山対軒に率いられ、佐幕派は江戸藩邸に多く、江戸家老の木村正右衛門が率いていた。

4月に城近くで新政府軍と旧幕脱走軍との戦闘があり、旧幕側が破れ新政府側の勢力が関宿に及ぶと、国許の佐幕派は関宿を脱して江戸の佐幕派に合流、佐幕派は広文を奪って彰義隊に加わった。

この頃杉山は家老に復帰した。彰義隊が破れると、佐幕派は転々と逃げ回ったが、広文は城に連れ戻され、木村はそのまま行方不明となった。

藩は5千石を没収され、広文は致仕謹慎を命じられ、弟の広業が後を継いだ。新政府が反逆者の報告を求めた際、杉山を妬む者が、杉山をその一人として上申した。

このため取調べがあり、杉山は東京に呼ばれた。嫌疑はすぐに晴れての帰り、1869年4月20日、杉山は現在の埼玉県杉戸町並塚で反対派に暗殺された。

翌5月、反逆首謀者として小島弥兵衛が処刑され、行方不明の木村については永尋が申し付けられた。