徳川慶喜追討戦争
1月6日に大坂城を脱した慶喜は、11日には軍艦開陽で品川に着き、翌日から江戸城において連日恭順か抗戦かの評定があった。しかし、激論は繰り返されるものの、時間が空しく過ぎるばかりであった。
東帰は当初それが慶喜の再起のためのものであるかの印象を家臣に与え、また慶喜自身の心にも揺れがあったことは否定できないかもしれない。しかし基本的には慶喜の立場は一貫して恭順であったと思われる。
15日には、主戦論の旧幕府勘定奉行兼陸軍奉行並の小栗忠順が、激しく抗戦を唱え、退席しようとする慶喜の袖を捉えるということがあった。故意ではなく慶喜の袴の裾を踏んでしまったとも言われるが、小栗は即日解任されている。
その前日14日には、抗戦に同調していた土佐新田藩主の山内豊福が、本藩の山内家が恭順の立場であることを知らされ、板挟みとなって、藩邸で自刃した。夫人の典子もこれに殉じた。
1月17日には、信濃の飯坂藩主であった旧幕府の若年寄兼外国惣奉行堀直虎が、江戸城内で割腹した。直虎はその前に慶喜に対して何らかの諫言をしたようであるが、その内容はわかっていない。後日、家名存続のため家臣たちが新政府に提出した嘆願書では、それは恭順を勧めるものであったとされているが、定かではない。
1月19日には、フランス公使からの再挙の勧めを慶喜が拒絶したとされる。
かくして、1月下旬までには旧幕側の大勢は恭順に落ち着き、親幕の各藩主や旗本たちも漸次その領地に引き揚げ、一部の者を除き、それぞれ新政府への恭順の姿勢を明確にしていくことになった。
一方、京都では、1月7日に慶喜に対する追討令が発せられた後、9日には高倉永祜が北陸道鎮撫総督、岩倉具定が東山道鎮撫総督、13日には四条隆謌が中国四国征討総督、25日には澤宣嘉が九州鎮撫総督にそれぞれ任命された。山陰道鎮撫総督及び東海道鎮撫総督の任命についてはすでに述べた。東海・東山・北陸の3道の総督については、後に呼称が先鋒総督兼鎮撫使に改められた。
さらに2月9日には、総裁の有栖川宮熾仁親王が東征大総督、澤為量が奥羽鎮撫総督に任じられた。澤は後に九条道孝に交代した。
2月12日、慶喜は江戸城を出、上野の寛永寺大慈院に入り謹慎した。
2月15日、東征大総督有栖川宮熾仁親王は京都を出発、3月5日、駿府城に入り、翌6日、東海・東山・北陸の3道総督に「本月15日を期して江戸城へ進撃」と命じた。
3月9日、旧幕臣の山岡鉄舟が江戸から長駆駿府の大総督府を訪れ、参謀の西郷隆盛に会い、慶喜の謹慎の実状を伝え、また降伏の条件を尋ねた。