西郷はこれに対し、城の明渡しなど七つの条件を示した。
山岡は、それらの条件の内、慶喜を備前藩預けに処すとの一項は、家臣として承服できないと強硬に異議を唱えた。
3月13、14の両日、江戸の薩摩藩邸で、西郷隆盛と旧幕府の陸軍総裁勝海舟とが降伏条件を巡って会談した。
西郷は勝の条件を持ち帰って検討するとしたが、直ちに3道の総督に、15日の江戸城進撃は延期すると達した。西郷は、会談の結果を駿府の大総督に報告した後、朝議を求めて駿府を発ち、20日には京都着、即日朝議となった。
朝議では強硬な意見も出たようであるが、結果は慶喜への寛大な処分が決まった。
西郷は25日に駿府に帰着した。
4月4日、東海道先鋒総督橋本実梁が江戸城に入り、旧幕府の代表である田安慶頼に次の5条件を示して、7日以内の実行を命じた。
一、慶喜は死一等を減じ水戸で謹慎
一、江戸城を明け渡す
一、軍艦銃砲を引き渡す
一、城内居住の家臣は城外へ退き謹慎
一、与謀者は死一等を減ずるも相当の処分を。但し万石以上の者は朝裁による
4月7日、慶頼より勅旨を奉ずるとの回答があった。
4月8日、慶頼より「鳥羽伏見戦時京阪にあって罪状ある者として、9名を揚座敷入、永蟄居、蟄居、あるいは閉門に処し、出奔した1名について探し出すよう申し付けた」と届出があった。
4月11日、実梁が江戸城を収め、慶喜は江戸を去った。
4月21日、大総督が江戸城に入った。
かくして、徳川慶喜追討戦争は、大きな流血を見ることもなく終わった。