5月になって上野の彰義隊の戦闘のことが伝わると、彼らは急遽江戸に向かうことになり、19日、箱根で人見の率いる先鋒隊と関所を守る小田原藩兵との間で戦闘となった。

ところが、翌20日になると、旧幕軍が江戸方面で勢力を盛り返しているとの誤った情報によって小田原藩が林らへの合力に転じたため、戦闘は中止となった。この時小田原には大総督府の軍監佐土原藩士三雲為一郎と鳥取藩士中井範五郎が鎮撫のため来ていたが、中井は斬殺され、三雲は江戸へ逃げ帰って急を知らせた。人見たち先鋒隊は、丁重に小田原に迎えられた。

これを知った小田原藩の江戸藩邸は驚愕した。驚愕した藩邸から留守居の中垣謙斎が急ぎ帰国。中垣は佐幕派の家老渡辺らと激論し、旧幕側の勢力回復など根も葉もない嘘であることを訴え、藩論を勤皇に戻した。

林軍には軍資金や食糧・武器・弾薬などを渡して退去を求め、忠礼は城を出て寺に入り謹慎した。

一方、小田原藩の変節を知った大総督府は、直ちに参謀穂波経度を問罪使とし1千の兵を付けて小田原へ派遣した。三島方面からも沼津藩兵などが加わった。

忠礼は穂波に降伏の使者を送り、謝罪するとともに、「賊徒は当藩一手にて討ち取りたい」と願い出た。

5月26日、問罪使軍の監視の下、箱根の山崎で人見の先鋒隊と小田原藩兵との戦いが始まった。初め人見軍が優勢であったが、問罪使軍の加勢で、翌日には林の本隊を含め、林軍全軍熱海に逃れ、28日、船で館山に戻った。

忠礼は官位を剥奪、城地を没収され、渡辺ら佐幕派の主だった者は江戸へ護送された。

6月10日に問罪使一行が引き揚げると、その夜、家老の岩瀬大江之進は、責めを負って自刃した。

後、忠礼は永蟄居を命じられ、血縁の荻野山中藩の大久保忠良が11.3万石から7.5万石に減封された小田原藩の新藩主になった。渡辺については、首謀の臣として相当の処置をとるようにとの命とともに藩に戻された。10月10日、渡辺は藩命により切腹した。総督府の軍監を斬殺した罪で小田原藩士二人が鈴ケ森で斬首となった。

一方、館山に戻った林らは、その後奥羽地方で新政府軍への抵抗を続けるが、林軍に加担した房総の各藩は、新政府のお咎めを受け、何人もの藩士が血を流すことになった。