関東の鎮撫Ⅱ
お騒がせの林について先に述べると、林は会津など奥羽各地で新政府軍に抵抗した後、仙台藩の降伏とともに仙台で新政府軍に降伏し、永預の身となるが、翌年には弟の忠弘が家名の継続を許され、士族として300石を与えられた。請西藩自体は取り潰された。
林忠崇自身は、1872年に預けの身を解かれ、職は、帰農、日光東照宮の神職、下級官吏、商家の番頭など転々とし、生活は苦しかったようであるが、1941年1月に94歳で「最後の大名」として死ぬまで、生を全うした。林家については、全国の旧大名が廃藩置県で華族となり、また華族令によって爵位を与えられた時、唯一華族にもなれず、爵位も与えられなかった。
しかし大日本帝国憲法発布を記念しての大赦で西郷隆盛などの名誉が回復されると、旧請西藩家臣による林家の家格再興運動が起こり、1893年には華族に列し、男爵を授けられた。この運動を進めた広部周助・精の親子は忠崇に恭順を説いた広部与惣治の一族であるという。
譜代1万2千石の勝山藩は、藩主酒井忠美が勤王の意思を表し上洛中であったが、国許では林らに迫られて、20数名を脱藩という形でその軍に参加させた。そのことを新政府軍に責められた藩では、大目付の福井小左衛門と中小姓役の楯石作之丞を6月12日に切腹させ、その首を新政府軍に差し出した。
譜代2万石の飯野藩は宗家が会津松平家である。そのこともあって、藩主保科正益は入京したところをそのまま謹慎を命じられて京都にいたが、国許では、やはり20名ほどを脱藩者として林らの軍に参加させた。
新政府軍にその責任を問われた藩では、6月12日、家老の樋口盛秀が切腹、また参加隊員の中から野間銀次郎が隊士を代表して罪を負うことを名乗り出て斬首になった。二人の首も新政府軍に差し出された。