〈孫次郎〉と名乗った青年の声は、容姿に違わず柔らかく透き通っていた。「甚介の兄、松永彦六郎です」と、儂は自らを名乗り、弟が世話になっていることの礼を申し添えた。

「聞けば彦六郎殿が治める五百住よすみの郷は、この乱世にあっても民の暮らしが良く守られているとか。いかにすれば民草の安寧を保てるのか是非ご教示願いたい」

いきなり、しかも唐突な問いかけに儂は少々たじろいだ。今でこそ五百住の郷は平穏だが、この乱世のことである、郷と田畑は幾度も兵火に焼かれたし、幾人かの民が殺されもした。その幾人かの中には儂の最初の妻と子も含まれている。そうした哀しく辛い経験を乗り越えて儂が辿り着いた考えを、有りていに申し上げた。

「これと言って特別なことは何もありませぬ。ただ、心掛けていることは、何事についても民の話を良く聞くことでしょうか。手前一人の頭で考えるよりも、多くの者の考えを持ち寄った方がより良い考えに辿り着くものです。それがしのような凡人には考えも及ばぬ奇策が飛び出すこともあります。そうすることにより、別の効果も生じます。領主から言われるがままに物事を行うよりも、自分たちで考え、自発的に物事を行う方が士気も高まりますし、効率も良くなると心得ます。民に『己が郷』という意識を持たせることが肝要と考えます」

目の前の青年は感慨深げに儂の話を聞いていたが一言、「堺の如くに……ですか」と問い返されたので、儂は「御意。ゆえに、かの地は平和で豊かです」と返した。

この当時、摂津国と和泉国の国境にある堺は貿易港として発展し、栄華を極めていた。〈会合衆〉と呼ばれる有力商人たちにより自治的な都市運営が成され、「他の諸国において動乱あるも、この町にはかつてなく敗者も勝者も町内に在住すれば、皆平和に暮らし、諸人相和し、他人に害を加える者無し」と、『耶蘇会士日本通信』にも報告されるさまであった。

「彦六郎殿はご存じかどうか。我が三好は享禄の頃、我が父元長が細川右京大夫(細川晴元の官途名)の策謀により自刃に追い込まれた折に、多くの家臣と兵をうしなっていました。今こうして摂津に出張でばっていますが、阿波本国をからにするわけにもいかず、全ての兵を率いて来ることはできません。それゆえこの越水で私を支えてくれる者の数が足りません。甚介の如く馳せ参じてくれる者もありますが、まだまだ足りません。いかがでしょう。彦六郎殿もこの三好に馳走してくれませんか」

それまでの穏やかな口調とは異にして少々力んで青年は語った。