細川高国は、周防の守護である大内氏に庇護されていた前将軍足利義材を京へ呼び寄せ、再び将軍とした。義材から名を変えた足利義稙である。

永正十五年(一五一八年)、十年間共に義稙政権を支えてきた大内義興が周防に帰国すると、高国は単独で幕政を動かした。

しかし永正十六年、本国の阿波に逃れていた細川澄元と三好之長は大軍を率いて摂津に上陸し、京に攻め(のぼ)ったのである。

大内氏の援護がないばかりか将軍義稙にも見放された高国は一旦近江坂本に逃れたものの、翌永正十七年、近江の六角氏、越前の朝倉氏、美濃の土岐氏の援軍を得て上洛し、三好之長を自刃に追い込むのである。そして細川澄元は逃げ帰った阿波で病死する。

高国と将軍義稙の折り合いが良くならないまま、将軍義稙が突如出奔したため、高国は前将軍義澄の子の亀王丸を十二代将軍とした。足利義晴である。

大永六年(一五二六年)、六年間、力を蓄えながら阿波に逼塞していた澄元の遺児である細川晴元と之長の孫である三好元長が阿波で挙兵し、再び畿内へ攻め入った。高国は敗れ、養子の細川氏綱とともに将軍義晴を伴って近江へ逃れた。

それでも高国は、伊賀の仁木義広、伊勢の北畠晴具、越前の朝倉孝景、出雲の尼子経久らを頼り上洛を目指すが(つい)には果たせず、享禄四年(一五三一年)、戦に敗れて紺屋の甕の中に隠れているところを三好方の兵に見つけられ、尼崎の広徳寺で自刃して果てた。享年四十八歳。

さて、将軍義晴、細川晴元、細川氏綱、三好元長が歴史の表舞台に登場し役者が揃ったところで、この物語の前説は終わりにするとして、いよいよこの物語の主人公である松永久秀が、もがきながらも必死に生きた時代を迎えることとなります。

これはあくまでも物語ゆえ史実とは多少異なる展開もござりましょうが、そこはご勘弁願って……。

では、物語を始めることといたしましょう。