一  天文八年(西暦一五三九年)

(わし)の弟の(じん)(すけ)が松永屋敷を出て行ったのは天文二年の夏のこと、三好利長というお方がまだ元服前で千熊丸と名乗っていた当時である。その千熊丸が石山本願寺の求めにより、弱冠十二歳で領地の阿波から大軍を率い、瀬戸内を渡って摂津国に兵を進めた。

そしてその少年の率いる軍勢は、本山である石山本願寺でさえも抑えることのできなくなった一向一揆をあっという間に蹴散らし、摂津国越水城に入城した。

その(のち)もその少年の率いる軍勢は、石山本願寺に味方して(いくさ)を続け、翌天文三年の夏には当時本願寺と敵対していた足利幕府管領家の細川晴元やその重臣で千熊丸には親類にあたる三好政長とも互角に渡り合い、摂津国にその勢力を伸ばしていった。

このままでは畿内が混乱状態になると危惧した隣国河内の守護代で当時天下の実力者でもあった木沢長政が仲介して両者を和睦させ、果たして千熊丸は細川晴元の(もと)に帰参した。

帰参……というのは、また話が遡るが、この帰参の二年前の享禄五年のこと、千熊丸の父の三好元長は細川晴元の重臣であったが、元長は当時かなりの実力者で、『出る杭は打たれる』の例えがあるように、その勢力が増すにつれて、主君であるはずの細川晴元に逆に疎まれ、結局晴元の策謀によって元長は自刃に追い込まれたのである。

類が及ぶのを恐れた千熊丸と御一族は、命からがら故国である阿波へと落ち延びた……という過去がある。

千熊丸にとって、晴元は親の仇なのである。