フランクルは、人間と人生の関係について次のように述べている。

「人間は、自分の人生をできるだけ意味のある人生にしたいという欲求に、最も深く支配され続けている」

これは第一章で述べた、マズローの「欲求の段階理論」でいえば、「自己実現の欲求」に該当する。

ニーチェも言うように、人間にとって最も耐え難いことは「何のために」という問いに対して答えがないことであり、反対に「何のために」の理由を知っている者はあらゆる「いかに生きるか」に耐えることができる。

第二次世界大戦の終了後、三十年もの間フィリピン・ルバング島に一人留まった小野田(おのだ)寛郎(ひろお)さんを支えたものは、遊撃戦をしながら敵の情報を集めるという命令を遂行することが祖国のために役立つ、という信念であった。

戦後の日本人、特に当時の若い世代にとっては、小野田さんの長年の過酷な状況での苦労は理解できたかもしれないが、あまりにも滑稽に見えただろう。しかし、彼の軍律に従うという使命感が、彼をして長年にわたる苦難を耐えさせたのである。この使命感、つまり「意味への意志」があるかないかが生死の分かれ道であった。

二 人生の意味についての二つの観点

『夜と霧』の中でフランクルは次のように述べている。

「強制収容所における人間を内的に緊張せしめようとするには、まず未来のある目的に向って緊張せしめることを前提とするのである。

囚人に対するあらゆる心理治療的あるいは精神衛生的努力が従うべき標語としては、おそらくニーチェの『何故生きるかを知っている者は、殆どあらゆる如何に生きるかに、耐えるのだ』という言葉が最も適切であろう。

すなわち囚人が現在の生活の恐ろしい『如何に』(状態)に、つまり収容所生活のすさまじさに、内的に抵抗し身を維持するためには何らかの機会がある限り囚人にその生きるための『何故』を、すなわち生きる目的を意識せしめねばならないのである。

反対に何の生きる目標をももはや眼前に見ず、何の生きる内容ももたず、その生活において何の目的も認めない人は哀れである。彼の存在の意味は彼から消えてしまい、それと同時に頑張り通す何らの意味もなくなってしまうのである。このようにして全く拠り所を失った人々はやがて仆(たお)れて行くのである。

あらゆる励ましの言葉に反対し、あらゆる慰めを拒絶する彼等の典型的な口のきき方は、普通次のようであった。『私はもはや人生から期待すべき何ものも持っていないのだ』。これに対して人は如何に答えるべきであろうか」

フランクルのもとを訪ねてきた前述の二人の男もこれと同じように、典型的な口のきき方をして自殺の相談をしている。この問いは強制収容所の囚人にかかわらず、人間存在そのものの根底に潜む本質的な宿命から発せられた叫びでもある。

 

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