はじめに

一 なぜ私が「生きる目的」を書くようになったか

最近は「いじめによる被害者が自殺する」という悲劇が繰り返されている。まさに見るにしのびない状況が続いているのだが、なぜ、彼らは自殺を選んでしまうのか、なぜ、生きようとしないのか、いつしか深く考えるようになった。

その糸口を模索している時、私は、一九〇三年に旧制第一高等学校の学生であった藤村操(みさお)(十八歳)が日光の華厳の滝に身を投じて自殺した事件に思い至った。

この事件から百年余りも経過したが、今も同じような自殺者が後を絶たない。当時、藤村操は滝の近くの大木の幹を削り、その肌に次の言葉を書き残した(「巌頭(がんとう)之感」と題された言葉の一節)。

「萬有(ばんゆう)の眞相(しんそう)は唯(ただ)一言にして悉(ことごとく)す、曰く『不可解』」

さらに、藤村は自殺の前日に母親に手紙を送り、その中で、

「世界に生きて益なき身の生きて甲斐なきを悟りたれば華厳の滝に投じて身を果す」と記していた。

前途有為の青年がなぜ、と意外に思い誠に残念でならない。遺書に記していない特殊な事情があったのかもしれないので故人の霊に対し大変無礼な言い方であるが、十八歳の若さで、はたして死ぬほど悩み抜いたあげく、人生は不可解という結論を出したのであろうか。

死ぬほど重大な問題であるなら、もっと真摯に命懸けで追求すれば必ず答えが出たはずである。

旧制第一高等学校はエリートの集団であり、教授陣もわが国のトップクラスにある先生方が揃(そろ)っていたはずで相談する機会もあったはずである(ちなみに夏目漱石は、藤村に英語を教えていた)。

また、自分で研究しようと思えば国際的に著名な学者や国内にもたくさんの哲学や社会科学や心理学や宗教学者の著作もあり、古くは二千五百年前から伝わるお釈迦(しゃか)様の教えもあったのに。

十八歳で「人生不可解」と言って自ら尊い命を絶つということはあまりにも不遜であると言わざるを得ない。

なぜ、このような悲劇が起きるのかというと、考え方に間違いがあるにもかかわらず、それに気づかず、間違った考え方のまま答えを出すからである。