ここまで考えた時、冒頭の「いじめによる被害者が自殺する」ことと、相通ずるものがあると思えた。

そこで私は本書の題名である『生きる目的』というものを正しく把握した上で、真に納得できるように、明確な目的が人生にはあることを伝えたいと願った。

いじめを受けて苦しむ若者が自殺という悲劇を繰り返さないように、何とか助けてあげたいという気持ちで本書を執筆することにした。

まずは私の体験してきたことから始めよう。

昭和二十年夏、太平洋戦争で日本が敗れ、それまで海軍兵学校や陸軍士官学校や予科練に入隊したり、あるいは学徒動員で大阪に通年動員で出向き、兵器を作ったりしていた旧制中学の同級生たちが母校の愛媛県立今治中学に一斉に帰ってきた。

それは異様な情景であった。海兵の軍服姿の者もいれば、陸士の軍服姿の者もいる。そこに予科練の軍服を着た者がおり、さらに中学の制服の者がいる。

今から思えば、おかしな光景だった。だが、級友の姿を見たことで、教室は賑わった。当時の旧制中学は五年制で、我々は二年生まではまともな授業を受けていたが、三年生の秋になると「学徒動員令」によって一切の学業が打ち切られ、全員が軍需工場で兵器の生産に従事することになった。

郷里の今治駅頭で家族や学校の先輩や後輩に歓呼の声に送られて出征兵士の如く『あゝ紅の血は燃ゆる』という学徒動員の歌が斉唱される中を特別列車で大阪へ出発したが、翌日から重労働が始まった。

食料不足による飢餓と蚤と蝨に悩まされ続け、勉強は一切していないのに翌年の四月に全員が四年生に進級した。

その後、学徒動員中に陸海空の学校を志望する者は受験して学徒動員先から入営していった。それでも、戦局は次第に悪化の一途をたどりアメリカ軍の29爆撃機による本土空襲が始まった。

至近弾で爆風に吹き飛ばされたり、艦載機の機関銃弾が足元に連ねて打ち込まれたりした。焼夷弾は頭からバケツをひっくり返したように降ってきたが幸運にも当たらなかった。

戦争中のことでもあり、死に対する恐怖感は全くなかったが、どうせ死ぬなら戦場で死にたいと思っていた。

 

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